二百六十三 玲那編 「玲那の想い」
水曜日。今日も沙奈子と絵里奈に見送られて、僕は仕事に向かった。バスの中からもう心を閉ざして、何も考えないようにして、オフィスに着いた時には安全にロボットになったつもりで自分の席に着いた。上司のイヤミも僕の心には届かなかった。何も要らない。何も望まない。ただ与えられた仕事を淡々とこなすだけだ。
少しずつ、昔の感じが戻ってきてる気もした。自分でも表情が失われてるのが分かる。そうだ、かつての僕はこうだった。無気力で無感情で人間味のない、無機質な存在。それが僕だった。
まさかいまさらそんなことが役に立つとは思わなかったし役に立てたくもなかったけど、今はむしろそれがありがたかった。
その調子で定時を迎えて、僕はオフィスを後にした。同僚たちの視線とかこそこそと何か言ってることなんかも完全にスルーした。
だけどその分、お見舞いに行って玲那の顔を見るとホッとした。彼女が毎日ちょっとずつ回復していってるのが分かる気がした。昨日から軽いストレッチを始めて固まった体をほぐすようにしてるってことだった。
それと、いつもくる刑事さんとも仲良くなったと言ってた。
「仲良くなったって…?」
思わず聞き返した僕に、玲那は悪戯っぽく笑いながら、
『権藤さん、私と同じ年の娘さんがいるんだって。でもちょっと関係がぎくしゃくしちゃってて困ってるみたいだよ』
とか、
『私、もう正直に話すことにしたんだ。権藤さんもちゃんと聞いてくれるし』
と言って、ベッド脇のチェストの引き出しから便箋を出して僕に差し出してきた。
『ここに、権藤さんにも話した詳しいことが書いてあるから、帰ってから読んで』
そう書かれたスケッチブックを僕に見せた玲那の表情は、すごく穏やかで、何か吹っ切れたような感じのそれに見えた。
『昨日、お父さんにキスしてもらって何だかすっきりしちゃった感じがする。お父さんが何も変わってないのが分かったからかな。
こんなに迷惑かけちゃって、もしかしたらお父さんに嫌われてるかもって思って怖かったけど、私がキスした時のお父さんの顔、前と同じだった。
だから大丈夫だって気がした。ちゃんと正直に話して、ちゃんと裁いてもらおうって。
私、もう、昔のことは大丈夫だよ。お父さんが私のお父さんでいてくれるから大丈夫。
ありがとう、お父さん。大好き』
「玲那……」
もうダメだった。込み上げてくるものが我慢できなくて、ボロボロだった。本当にこの子はどうしてこんなにいい子なんだろう…。どうしてこの子がこんな辛い想いしなきゃいけなかったんだろう…。その理不尽さが苦しくてたまらなくて、涙が止まらなかったのだった。
一時間くらい病室にいて玲那と話して、さすがに疲れたからということで彼女が眠ったのを確かめて、僕は家に帰った。
バスの中で手持ち無沙汰だったから、つい、もらった便箋を開けて読んでみた。するとそこには、実のお母さんの通夜に行った夜に、実のお父さんがお酒に酔ってつい口走った『ようやくあの辛気臭い女がいなくなってくれて清々したよ』って言葉が最初のきっかけだったって書かれてた。
でもその時はまだ我慢したってことだった。だけど、お母さんのお葬式の準備中、控室の中で実のお父さんが電話で話してた内容を聞いて、頭が真っ白になったって……。
それは、実のお父さんが、また女の子を集めて昔みたいに売春の元締め的なことを始めようとして、仲間らしい相手と打ち合わせをしてるというものだった。しかも、小学生の女の子も使いたいから何とか集められないかっていう……。
それを聞いた瞬間、玲那は、また自分みたいな女の子を作ることになるのが許せなくて…、いや、そういうのも含めてかもしれないけど、とにかくそういうことを止めさせるためにはどうしたらいいのかっていうので頭がいっぱいになって、だからもう、殺すしかないって……。
たぶん、そこに自分の恨みとか憎しみとかもごちゃまぜになって思考が停止して、気が付いたら包丁で刺してたってことだった。そして、自分のしてしまったことを自分で罰しようとして、喉に包丁を……。
その時には、僕たちのことは完全に頭から消えてしまってたそうだった。ちょっとでも思い出せてたらあんなことはしなかったかも知れないって書かれてた。
だけど、そういう風に僕たちのことを忘れてしまってた自分も許せなくて、死んでしまいたいと思ったとも書かれてた。
けれど今はそうじゃない。自分のしてしまったことはしてしまったこととして裁かれて当然だけど、いつか僕たちのところへ帰りたいと、また一緒に暮らしたいと、今の玲那の正直な気持ちが綴られていた。
『私もまだ、みんなの家族でいられますか?』
って……。
僕は泣いた。バスの中で人目もはばからず泣いた。いい歳をした大人の男が手紙を読みながらボロボロに泣いてる姿なんてとんでもなく恥ずかしいものだと思う。でも我慢なんてできなかった。そのせいで危うく乗り過ごしそうになったりしたけど、そんなことはどうでもよかった。
玲那の気持ちがしたためられたそれを手に、僕は家に帰った。
「どうしたの、達さん…!」
玄関を開けて部屋に入った僕を見た途端、絵里奈が驚いたみたいに声を上げた。たぶん、よっぽどひどい顔をしてたんだと思う。でも僕から受け取った玲那の手紙を読んで、絵里奈はもっとひどい顔になってた。絵里奈がしゃくりあげながら読み上げるそれを聞いて、沙奈子もポロポロと涙をこぼしてた。
それを見て、僕は改めて感じてた。
玲那は家族だよ。間違いなく僕たちの家族だ。どんなことがあっても見捨てたりできない、僕たちの大切な家族なんだ。だから待ってる。いつまでも待ってる。待ってるだけじゃなくて、玲那のことを支える。世間がどんなにあの子を責めても、僕たちには関係ない。あの子がどんな子か知らない人間の言ってることなんてどうでもいい。
僕たちはあの子のことを知ってる。だから待てる。支えられる。何年かかってもいい。いつかまた四人で一緒に暮らそう。たとえ一時離れ離れになっても、それは最後には一緒に暮らすために必要な回り道なんだ。そのために、今できることをする。
「おねえちゃんは、私のおねえちゃんだよね?」
沙奈子が涙を浮かべながらそう聞いてきた。『私もまだ、みんなの家族でいられますか?』という玲那の問い掛けに対する、この子なりの返答だと思った。沙奈子が自分で考えた答えだと思った。
「もちろんだよ。玲那お姉ちゃんはお父さんの娘で、お母さんの娘で、沙奈子のお姉ちゃんだよ」
僕ははっきりときっぱりとそう言った。それがすべてだった。
僕は家族を守る。この家庭を守る。玲那が戻りたいと願ってくれてる、帰りたいと願ってくれてる、この家を守る。
何度だってそう誓う。毎日だってそう誓う。そんな僕の姿を、兵長の人形が真っ直ぐに見詰めてたのだった。




