二百六十二 玲那編 「NO残業」
火曜日。今日も沙奈子と絵里奈に見送られて、僕は仕事に向かった。一人でバスに揺られてると、やっぱりまだ少し寂しい気がした。
今日はもう、昼休憩で気持ちを入れ替えることは出来ないっていうのが分かってたからしょっぱなから完全に心を閉ざした。上司の嫌味も余裕で聞き流した。
隣の席の真崎さんも、特に僕に話し掛けたりとかしないで自分の仕事に集中してた。英田さんに似たタイプの人だと改めて思った。この会社は、そういう人間ばっかり採用するのかなとか少しだけ頭をよぎった。
今日は玲那が警察病院に転院する予定だけど、僕には何もできることがない。だからとにかく仕事に集中した。すると、定時前になって上司が僕のところに来て言った。
「今はそれほど忙しくないし、山下君は今日から残業はしなくてもいいよ。いろいろ大変だろう?。ご家族のことを考えてあげてくれたまえよ」
…そうか、そういう手できたか…。
さすがに僕にもピンと来てしまった。残業させないことで収入を減らして辞めると言い出させる形にしたんだと思った。これは正直、痛手だった。残業代も込みでこれまで計算してたものが、成り立たなくなる。でもここで食って掛かっても『嫌なら他を当たってくれていいんだよ』と言われるだけなのは分かってた。
玲那のことがなかったら、転職を考えていたかも知れない。だけど今は、玲那のことがどうなるかはっきりしてからでないと迂闊に動けないと思った。別にこんな会社に愛着もないし義理立てする気もないけど、そんなことで気に入らない社員を追い出せると思ってることについてはさすがに業腹ってやつだと感じた。
とりあえず、玲那の判決が確定するまでは粘ってやると逆にやる気になってしまったのだった。
そんなわけで残業がなくなって、僕はせっかくだからと思って警察病院まで行ってみることにした。
絵里奈に電話して事情を話すと彼女も声を詰まらせたけど、
「達さんにお任せします。私も協力しますから」
と言ってくれた。それが嬉しくて、僕も込み上げるものがあった。
警察病院でも、玲那は個室に入っていた。ちょうど寝てるところだったから、顔を見ただけでこの日は帰ろうと思った。だけど、病室を出ようとした時に何か気配を感じて振り返ったら、玲那と目が合ったのだった。
『お父さん、どうしたの?』
玲那がそう口を動かしたのが分かった。声は聞こえないのに、そう言ったのが不思議と伝わった。
彼女に心配を掛けないようにするために、ここで嘘を吐くのも一つの方法だったかも知れない。でも僕は、敢えて正直に話した。
「今日から残業がなくなったんだ。だから毎日、玲那に会いに来れるよ」
残業をなくすなんてことをするような会社じゃないことは、玲那も知ってた。だから、それだけでピンときてしまったらしい。筆談用に絵里奈が買ってきたスケッチブックを手に取り、彼女はそれで僕に聞いてきた。
『もしかして、私のせい?』
それに対して、僕は頭を横に振った。きっかけはそうだったとしても、これは玲那のせいじゃない。あの会社がおかしいだけだ。会社のやり方がおかしいのを玲那のせいにするのは間違ってると僕は思った。だから首を横に振った。
「玲那のせいじゃないよ。大丈夫。あの会社はもともとそういう会社だって、玲那も知ってるだろ?。だから気にしちゃいけない」
そう言った僕に向かって、泣きそうな顔で彼女は『でも…』と唇を動かした。そんな玲那を真っ直ぐに見詰めて、僕はきっぱりと言った。
「玲那。そのくらいのことがあるのは僕も覚悟の上だよ。それに僕は玲那の父親だ。玲那が以前言っただろ?。『お父さんは私にひどいことしないよね』って。その通りだよ。僕は玲那にひどいことはしない。玲那を一人にしたりしない。玲那が辛い時に放っておいたりしない。玲那は僕の娘なんだ。辛い時はいっぱい甘えたらいいんだよ。玲那に甘えてもらえるのが、僕の幸せなんだ」
呆然とした顔で僕を見詰める彼女に、姿勢を正して僕は改めて言葉を投げかけた。
「玲那…、愛してる。君は僕の大切な娘だ。君が一人で苦しんでると思うと、僕も苦しい。だからもう、一人で苦しまないでほしい。玲那が一人で苦しんでるのを見るのは嫌なんだ。だって僕は、玲那の父親なんだから……」
僕を見詰めてた彼女の目から、ポロポロと涙が溢れた。唇が『お父さん』って動いた。スケッチブックもペンも放して、僕の方に両手を差し出した。抱き締めてほしいって甘えてるんだってすぐに分かった。だから僕もそれを受け入れた。彼女を包み込むようにして抱き締めた。
まだまだ体は細いけど、僕の体に回された腕には、前よりはほんの少しだけ力が戻ってる気がした。それを出来る限り取り戻して、これからのことに備えなきゃいけないと改めて思った。僕もこの子と一緒にそれに立ち向かっていこう。罪を罪として受け止めていこう。それが、この子の父親としての僕の役目なんだから。
しばらく抱き合った後、彼女が頷くような仕草をしたのを感じて、僕はそっと体を離した。すると玲那は、自分の右の頬に指を当てて、唇を少しとがらせるジェスチャーをした。頬にキスして欲しいっていう意味だと思った。もちろんそれを聞かない理由もなかった。だから彼女の頬に唇を寄せていくと、触れる寸前、玲那は急に正面を向いて、僕の唇に自分の唇を重ねてきたのだった。
あ…、やられた…!。
そう思って慌てて顔を離した僕に向かって、彼女はニヤニヤと笑いながら『もーらい!』と唇を動かした。
もう、まったくしょうがない娘だな…!。
そんな風に思いながらも、僕の知ってる玲那がそこにいたことに、胸が熱くなった。涙が勝手に込み上げてきて、でも頬は緩みっぱなしだった。
玲那。僕の大切なもう一人の娘。こうやって君を支えることができるというのは、僕にとって本当にかけがえのない喜びだってすごく思う。辛いことがあっても、玲那のためなら耐えられる気がする。
もう一度抱き締めて、頭を撫でてあげて、それからそっとベッドを横にならせてあげた。しばらく黙って見つめ合って、彼女は目をつぶると、静かに寝息を立て始めたのだった。
その後も僕は眠ってる玲那の姿を見つめて、この子がここにいるんだっていうことを胸に刻み込んでから、「明日また来るよ」って小さく声を掛けて病室を後にした。
直通のバスがないから途中で乗り換えて、僕は沙奈子と絵里奈が待つ家に帰った。
「おかえりなさい」
そう言って迎えてくれた二人にも、「ただいま」と頬にキスをした。いつもと少し違う僕の様子に沙奈子がちょっとだけ驚いた顔をして、でもお返しのキスをしてくれた。絵里奈からは、改めて唇にキスをもらった。
これが僕の家族なんだと、僕は改めて心に刻み込んでいたのだった。




