二千六百 沙奈子編 「僕に突然扶養家族ができた訳」
これで、
『僕に突然扶養家族ができた訳』
についての話は終わったと思う。
単に『扶養家族ができた』というだけなら、沙奈子が僕のところに来た経緯だけを明かせば済むと思うけど、でもそれじゃ、話を終えた後で、
『やっぱり無理だった』
と諦めて彼女を施設に預けてしまったとしても成立してしまうよね。物語は『ハッピーエンド』で終わっても、でもその後も登場人物たちの人生は続いていくはずなんだ。
玲那も言ってたよ。
「ヒット作の続編とか、登場人物たちのその後を描いた短編とかが発表されるたびに、『蛇足だ!』『金儲けに走った!』『綺麗に終わっとけばよかったのに!』とか言うのが出てくるけどさ、そういうのを見ると、『ああ、この人らは登場人物たちを生きた人間として見てなかったんだなあ』って感じるんだよ。
印象的な部分だけを『都合よく切り張りした』ものを消費しただけで『人生』みたいなのを分かったつもりになってるのとか、本当に嫌んなる」
ってね。
それは、あんまりにも過酷な子供時代を過ごした玲那だからこそ実感かもしれないし、彼女ほどは過酷でもなかった僕でさえ共感できてしまうものでもある。
あくまで『娯楽用の商品』としてなら、
『印象的な部分だけを切り張りして面白おかしく作り上げる』
のは決して間違ってないと僕も思うし、
「ま、娯楽用のフィクションってそういうものだってのは分かってるけどね」
とは、玲那自身も口にしてる。ただ、『生きた人間の人生に触れる』つもりなら、楽しい面白いだけじゃ済まないことは分かっておきたいと僕は思うんだ。そして沙奈子や玲緒奈にもそのことは分かっておいてほしいと思う。それが分かってれば、他の人の人生にあれこれ口出しなんかしないんじゃないかな。他の人の人生を自分が思うそれに作り変えてしまおうなんて思い上がったりもしないんじゃないかな。
なにより、自分の人生に本気で向き合うつもりなら、他人の人生まで構ってる暇もないと思うんだよ。自分自身と本当に身近な数人の人生に関わるだけで手一杯なんじゃないかなっていう実感があるし、ここまで沙奈子を育ててきて思い知った。
いつかこの僕の『日記』というか『手記』というかが誰かの目に止まったりすることもあるかもしれないけど、それを『商用』として編集されたものは、決して僕や沙奈子たちの人生を描いていないと思う。
『他人の日記』なんて、たいてい読んでていたたまれなくなってきたりするものだろうし。
でも、僕たちは生きているんだ。そしてこれからも生きていくんだ。
沙奈子の人生は、彼女自身が作り上げていく人生は、本当にここからなんだよ。
これで終わりじゃないんだ。




