二千五百八十八 沙奈子編 「完璧な対応なんて」
『難しいね。人間関係って……』
沙奈子のその言葉が結局はすべてを物語ってる気がする。親子関係だってあくまでも、
『人間関係の一種』
でしかないことは、自分がこうして親になったことで改めて実感した。子供の立場だけでそれを口にすると、
『何を分かったようなことを』
みたいに攻撃してくる人がいるけど、だからこそ親になった今、しっかりとそれを実感できたのを無駄にしたくない。親が子供との関係で悩んだりすることがあるように、子供も親との関係で悩んだりするのは、それは決して単なる『子供の我儘』じゃないと思うんだ。それをただの『我儘』と切り捨ててきちんと対処しようとしない親だからこそ子供は悩んでしまうんだろうな。
確かに中には子供が悩んでることを心配する親もいるんだろうけど、だからといってただ子供の顔色を窺うだけなのも違うんだろうなとは思う。
親子じゃなくてもあるよね?。相手がやたらと自分の顔色を窺ってきたり機嫌を取ろうとしてあたふたしてるのを見ると逆に苛々してしまうようなのが。それって要するに、
『自分がこうやって機嫌を取らないとこの人は駄目なんだ』
みたいに思われてるってことなんじゃないのかな?。それはいい気がしないよね。
そうじゃなくて、気分を害するような振る舞いをしてしまった時にはそれを改める姿勢を見せつつも、腫れ物に触るような過疎な気遣いは逆に相手に失礼だってことでいいと思うんだよ。
どんなに気を遣おうとしたって百パーセント完璧な対応なんてできないと思う。なのに無理に百パーセントを目指そうとするからしなくていいことまでしてしまうんじゃないかな。
卑屈になって相手の顔色を窺うんじゃなくて、ただ『相手をちゃんと見る』だけでいいと思うんだ。
だけどこのニュアンスの違いも分からない人には分からないんだろうな。そういう『言葉では伝えきれないニュアンスの違い』こそ、実際の振る舞いで手本として示す必要があるんだろうな。
上手くできなかった時には『ごめんね』と謝りつつ、だけど卑屈にはならない。それを実際の振る舞いとして子供の前でやってみせるのが大事なんだって僕は感じてる。
沙奈子の前で僕はそれができてたのか?って言ったら、やっぱり完璧とは言えなくてもある程度はできてたんじゃないかなって、沙奈子の様子を見てたら感じるんだ。
これも結局は、沙奈子のことをよく見てればこそ分かるものなんじゃないかな。見てないと分からないだろうなって気がする。




