二千五百八十七 沙奈子編 「幸せのおすそ分け」
「私も、『幸せのおすそ分け』ってのはよく分からない。何がしたいんだろって思う……」
沙奈子も、不思議そうにそう言った。それに対して僕は、
「ホントだよね。あれってどういう考えなんだろ。『幸せのおすそ分け』をされて素直に喜べるのは結局はそれなりに幸せを感じてる人だけのような気がするし」
と応えた。これにも沙奈子は、
「だよね。私もお父さんのところに来る前の自分がそんなことされたって意味が分からなかった気がする」
って。
これもきっと、ネットとかで発信したら『批判』されたりするだろうな。
『他人の好意を踏みにじるな!』
みたいな感じで。だけどそれを『好意』だと思ってるのは自分たちだけだってなんで思わないんだろう。どうして『相手も自分と同じように考えてて当たり前』って考えられるんだろう。そんなの、相手を人間だと認めてないのと同じだと思うんだけどな。人間なんだからいろんな考え方や感じ方があって当然なのに、それを無視してるんだからね。どうしてその事実を認められないんだろう。認める余裕がないんだろう。『幸せ』なはずなのに。
だからそれに拘る人って、結局は自分が幸せだという実感が本当はあまりないんじゃないかなって気がするんだ。その実感があまりないから、『幸せのおすそ分け』をすることで、
『自分は他の人に幸せのおすそ分けができるくらい幸せなんだ』
って思いたいだけなんじゃないかなって気がしてしまうんだよ。
これについてもきっと猛然と反発する人もいると思う。でも、そう考えること自体を否定したいわけじゃないんだ。そういう考え方をしてる人ら同士で楽しくやってるだけなら何も問題ないと思うし。あくまでそういう自分たちの考え方を、そう感じない人にまで一方的に押し付けようとするからつまらない軋轢が生じるんだろうなって気がするだけで。
それは翻って、
「でも、幸せのおすそ分けなんて意味がないと考える僕たちの価値観を誰かに押し付けるのも違うとお父さんは思ってる」
という意味でもある。
これについても、
「分かってる。他の人が『幸せのおすそ分け』をしてきても『社交辞令』で受け流しておけばいいってことだよね」
応えてくれた。
「そうだね。それでいいと思う。こう考えてることを明かすだけでもキレる人もいるとは思うから、そこは気を付けないといけないかもだけど」
「難しいね。人間関係って……」
「確かに。だけどそういう部分を疎かにして自分ばっかりが認められるべきって考えるのは『甘え』だとお父さんは思ってる」




