二百五十五 玲那編 「人が人でいるために」
絵里奈は絵里奈で、そのことをずっと考えていたらしかった。しかも、玲那の向こうの部屋の住所がネットに晒されてると知った時、決心したらしかった。沙奈子をそういうことから守るために、当分の間、絵里奈の部屋で玲那と住むっていうことを。
それはもちろん、玲那を一人にはできないということもあった。そして、玲那との付き合いは僕たちよりずっと長くて彼女のことは僕たちより分かってるというのもあるらしかった。そういう風に言われると、僕にはもう何も言えなかった。
「大丈夫です。ちゃんと時々は外で会えるようにしますから」
とも言ってたし。
でもそれも、やっぱり玲那が帰ってきてからの話だよ。そもそもあの子がいつここに帰れるのかも分からないんだから。
夕食を終えてから僕たちは、山仁さんの家に行った。
「玲那が、意識を取り戻しました」
僕のその言葉に、山仁さんも、イチコさんも、星谷さんも、波多野さんも、田上さんも、ぱあっと明るい表情になって口々に、
「良かった…」
「本当に良かったですね!」
「安心しました」
「良かった、良かったぁ…」
「おめでとうございます」
って喜んでくれた。波多野さんなんか、絵里奈の手を掴んで「良かった…、良かったよぉ…」って涙を浮かべてくれてた。もうそれだけで胸がいっぱいになりそうだった。だけど、喜んでばかりもいられない。実際に大変なのはむしろこれからのはずだから。
波多野さんの方はマスコミの取材も少し落ち着いてきたらしいけど、今度はご両親の様子がおかしいみたいだった。顔を合わせる度に口論になり、しかもその話題と言えば、息子さんがこうなってしまったのはどっちの所為かということでお互いに責任の擦り付け合いになってるらしかった。だからやっぱり波多野さんは家には帰れず、まだ山仁さんのところにお世話になってるということだった。
その話を聞いて僕は、すごく悲しい気分になった。どっちの責任とか、そういう問題じゃないと思った。そんなことを言い合う前にもっと考えるべきことがあるんじゃないかって気がした。息子さんがしてしまったこととどう向き合っていくのかを、親として一緒に考えなきゃいけないんじゃないかって。
幸か不幸か、僕たちの間ではそんな言い合いはまったく無かった。誰の責任かって話になれば、正直、玲那の実のお父さんに一番の原因があるというのが僕と絵里奈の共通認識だった。もちろん、あの日あの子を行かせてしまったことについては僕も責任を感じてるけど、玲那の家庭が普通だったらまずこんなことになってなかったはずだから。
事情が違うと言えばそれまでだけど、それだけじゃない気もする。息子さんが娘さんに乱暴しようとしたことにさえ気付かないとか、お子さんたちの様子をちゃんと見てたのかなって思ってしまった。
僕は、沙奈子が学校で何か嫌なことがあっただけでも様子が変だと感じた。始めのうちはそれに気付いてても心配とかするところまで頭が回らなかったのも事実でも、何かがあればあの子の様子に現れることが分かった今では、気付かない訳がないとまで思ってしまう。
それなのに、波多野さんのご両親はどうしてそれに気付かなかったんだろう?。お子さんたちのことをちゃんと見てなかったのかなとも思ってしまう。それを裏付けるように波多野さんが、
「あいつらは、私たちのことなんか見ちゃいないんだよ。いつだって自分のことしか頭にないんだ…!」
と、まるで呪いの言葉を吐くみたいにそう言った。自分の子供にそんな風に言われる、そんな風に思われる親って……。
ああでも、波多野さんの言ってることがそのすごく分かってしまう。僕の両親のことが頭をよぎる。何を言い争ってたのか、その内容まで想像付く気がする。だって僕の両親もいっつも些細なことで言い争っていたから。兄が家に帰ってこなくなってアーティストになるとか言って勝手に外国に行ってしまったのが分かった時だって、どっちの教育が悪かったのかって何時間も言い争ってたことも思い出してしまった。それと同じだ……。
すると田上さんが、
「うちは、父親は逆に何にも言わない人で、母親が一方的に罵ってばっかりなんだけど、カナのお兄さんのことが分かった時なんか、『そんなクズが兄弟にいるようなのとは関わらないでよ』って言ったの。私、それを聞いた瞬間、殺意さえ感じた。他人のことをクズだとか、カナのことまでまるで人間じゃないみたいに言うあんたの方がよっぽどクズでしょって思った…。もう嫌!、あんな人……!」
って目に涙を溜めて訴えてきた。僕にもその気持ちが想像できてしまって、胸が苦しくなった。
そんな僕たちに向かって山仁さんは、
「普段こぼせない愚痴は、ここでこぼしてもらっていい。けれど、愚痴をこぼしてるだけじゃ問題が解決しないことも分かって欲しいと思います。そのために、何が必要なのかを一緒に考えるために私たちはこうして集まっているんです。もちろん、いつもいいアイデアが出るとは限りませんが…。
それでも、ここに集まるだけでも、集まれる場所があるだけでも、力になるのかも知れません。
波多野さん、田上さん、山下さん。私たちは血の繋がった家族ではありませんが、もうすでに家族に準じた集まりであると私は考えています。私は皆さんとこうして出会えたことを大切にしたいと思っています。苦しい時にはここに来ていただければ、一人じゃないということを感じていただければ、何かの役に立つと感じています。
私は皆さんに何もして差し上げられませんが、こういう場所があるというだけでも、心の支えにはなると思うんです」
って……。
『何もして差し上げられない』なんて、僕なんかそれこそ本当に何もできてない。山仁さんにはお世話になりっぱなしで、何もお返しできてない。
だけど、本当は山仁さん自身が、こうやってみんなが集まれる場所を提供できてることで救われてるんだっていうのを、僕は後になって実感することになった。微力だけど自分が誰かの役に立ってるというのを感じることが心の支えになってるんだっていうのを知った。それが、奥さんを亡くして大きな心の柱を失った山仁さんの力になってるんだって。
そうなんだ。僕たちはこうして互いに支え合うために出会ったんだっていうのを、呼び合ったんだっていうのを改めて感じたんだ。
それが、人として大切な大きな何かが欠けてしまった僕たちが正気でいるために必要なものだったんだ。
波多野さんも、田上さんも、ううん、本当は星谷さんも、そして山仁さんとお子さんたちも、そのおかげで正気を保つことができてるんだ。それを得ることができたから、僕も沙奈子も絵里奈も玲那も、いくつかの大切なものを失いながらもこの後の辛い数年間を耐えきることができたんだ。
本当に、本当に、感謝しかない…。感謝するしか僕にはできなかったのだった。




