二百五十四 玲那編 「絵里奈の決心」
「あ、絵里奈?。今から帰るよ。うん、玲那は寝たから。今日はもうゆっくり休ませてあげよう」
病院の前のバス停でバスを待つ間に、僕は絵里奈にスマホで電話した。家では今、沙奈子が午後の勉強をしてるとこだということだった。
『帰ったら、三人で買い物に行かなきゃな…』
そんなことを考えた。それから、夕方になったらまた山仁さんのところに集まることになってた。玲那が目を覚ましたことを報告してお礼もしなくちゃ。秋嶋さんたちにも知らせた方がいいな。今日は土曜日だし部屋にいるかもしれない。帰ってから確かめてみよう。
それにしても、なんだかずいぶん時間が経っちゃった気がするな。玲那が出掛けてからまだ二週間も経ってないのに…。玲那もすごくゆっくり寝てたな。だけど大変なことがあったからな。回復するにはその程度は必要だったってことかも知れない。そのことは別にいいよね。
家に戻ると、玄関前の雪だるまがさすがに跡形もなく消えてた。昨日、仕事から帰った時にはまだ三十センチくらいの塊が残ってたのがもう一気に溶けてしまったみたいだ。まったく。玲那が目を覚ますのに合わせて消えたってこと?。なんだそれ。
自分の考えに苦笑いを浮かべつつ玄関の鍵を開けようと思った時、ふと秋嶋さんに玲那が目を覚ましたことを伝えなきゃと思い出して、玄関のチャイムを押してみた。正直、こういうのは苦手だから少しためらってしまったけど、きっと必要なことなんじゃないかな。
ドアスコープから見やすいようにと正面に立ってたら、そっとドアが開いて「こんにちは」と秋嶋さんが姿を現した。相変わらずおどおどした感じの様子に、どうしても僕は合わないものを感じてしまってた。でもそれはさて置いて、
「玲那が、目を覚ましました。みなさんのおかげです、ありがとうございました」
と頭を下げながら言ったら、部屋の中から他の人も出てきて、
「本当ですか!?」
って。「はい」と僕が応えると。
「キタ――――――――ッ!!」
「いやったぁぁーっっ!!」
「良かったーっっ!!」
「ヤバい、泣けるーっ!!」
という感じで口々に叫びながらガッツポーズを取ったり抱き合ったりしてた。ほんとに泣きだす人もいた。普段は気配も感じさせないくらいに大人しいこの人たちがこんなに声を上げて喜んでくれるなんて、玲那がどれくらい好かれてたのかっていうのをすごく実感させられる気がした。
「よーし!、ミホリンたちにも連絡してお祝いしなきゃ!!」
誰かがそう声を上げたけど、そこから先は秋嶋さんたちの話だと思ったから、
「心配してくださって本当にありがとうございました」
ともう一度頭を下げて、僕は自分の部屋に戻った。
「秋嶋さんたちですか?」
部屋に戻るなり絵里奈がそう聞いてきた。まああれだけ大声で叫んだら筒抜けだよね。「うん」と僕が頷くと、涙を浮かべながら「優しい人たちで良かったです」って呟いてた。その通りだねって僕も思った。
「おねーちゃんのおともだちもよろこんでるんだね?」
沙奈子にも分かったみたいで、僕を見上げながらそう言った。
「玲那お姉ちゃんは優しいから、みんな大好きになってくれるんだよ」
僕が膝をついて視線を合わせて応えたら、すごく嬉しそうに笑って抱き付いてきた。それは、久しぶりに見た沙奈子の笑顔だった。
沙奈子が笑ってくれてる…!。
それが嬉しくて嬉しくて、僕も思わずぎゅって抱き締めてしまった。そしたら「んんっ」って沙奈子が苦しそうな声を出したから慌てて力を緩めて「ごめん!」って声が出た。
「ううん、大丈夫」
彼女がそう言ってくれたから、僕はもう一度、今度はそっと包み込むように抱き締めた。その僕と沙奈子を絵里奈も抱き締めてくれていたのだった。
玲那のスマホは警察に押収されてるらしくて、彼女の友達とかの連絡先は分からなかったけど、少なくとも秋嶋さんたちとも知り合いになった友達には連絡が行きそうで少し安心した。そこから先は友達同士で連絡を取り合ってくれるんじゃないかな。
ただ、ちょっと気になることもあった。佐々本さんが言ってた、玲那の向こうの部屋の住所とかがネット上で晒されてるっていう話。誰がそんなことをしたんだろう…?。向こうの住所だけを晒してるってことは、玲那が今ではほとんどこの部屋に住んでるみたいなものっていうのを知らない人の仕業っていう気がする。しかも、あの子の事情を知ってればそんなことをするとも思えない。だから玲那の親しい友達じゃない気がする。まったく…。
でも、そうだよな。そんな犯人捜しはしても仕方ないって僕は知ってるじゃないか。それに今はどうせ本人は入院中なんだし、あんまり気にする必要もないか。
だけどその辺りのことは、絵里奈は僕とは少し違う形で気にしてるみたいだった。
沙奈子の午後の勉強が終わって一息ついた時、絵里奈が少し改まった感じで言ってきた。
「達さん。実は玲那が戻ってきたからのことなんですけど…」
ちょっといつもとは違うその雰囲気に、僕も姿勢を改めた。
「沙奈子ちゃんへの影響のことを思うと、玲那とはしばらく別々に住んだ方がいいと思うんです」
…え?。…な…、なに…?。どういうこと…?。
戸惑う僕に、絵里奈はさらに言った。
「たぶん、玲那はもう向こうの部屋にはいられないと思います。でもだからってこの部屋に住むと、マスコミとか嫌がらせする人とかがここに来るかもしれません。幸い、今はここのことは知られてないみたいですから、玲那には私の部屋に来てもらって、そこで私と一緒に住むことにすればいいと思います」
「でも…、そんなことをしたら絵里奈と玲那が…」
「達さん。私も玲那も一応は大人です。でも沙奈子ちゃんはまだ小学生です。玲那だってそんなことに沙奈子ちゃんを巻き込みたいと思ってません。だから、ほとぼりが冷めるまでいうことで」
…確かに…、確かに沙奈子はなるべく巻き込みたくないけど、それじゃ僕が絵里奈や玲那を守ってあげることができなくなるんじゃないか…?。玲那を守ってあげるって、決心したばかりなのに……。
だけど、僕を真っ直ぐに見詰める絵里奈の目を見た時、ああ、これはもう何を言っても無駄だなって気がした。僕に対してぐいぐいと迫ってきた時の、結婚届をコタツの上に出して『結婚しましょう!』と言った時の、役所の時間外受付で玲那との養子縁組の届けが受理されなかった時に『生まれた日時が違ってるのが確認できたら受理されますか!?』と係の人に迫った時のそれだと思った。こうなったら絵里奈は引かないんだ。泣き虫のクセにこういうところでは我が強くて……。
「…分かった。でもそれは玲那が帰ってきてからまた考えよう。いずれ状況が変わるかもしれないし…」
この時の僕には、そう言うしかできなかったのだった。




