二千四百八十九 沙奈子編 「それだけじゃない」
四月二十一日。金曜日。曇りのち晴れ。
『一を教えたら十を理解しろ』
絵里奈も星谷さんも、そんな風にはまったく考えていない。『人を育てる』というのはそんなお手軽でムシのいい話じゃないというのをわきまえてるんだ。
人間は、なまじ知能が高いから、『自分なりの解釈』っていうものができてしまうんだろうな。一を教わったら、『自分なりの解釈』で、十を理解した気になってしまうことも少なくないと思う。
それがちゃんと正解を引き当ててたらいいけど、もし外れてたらかえって余計な手間が掛かったり、場合によってはトラブルになってそれこそ大きな損害が出たりすることもあるんじゃないかな。
それじゃ意味がないよね。なのにそういう話は、上手くいった事例だけが喧伝されて、都合よく利用されたりすることも多そうだって気がする。
しかも、上手くいったら指導した人の手柄にされて、上手くいかなかったら当人の責任ってことにされたりってことも、実際にはあるかもしれない。
僕は、そういう『狡さ』を『利口さ』とか『賢さ』とか『要領のよさ』ってことにはしたくない。子供の前でそういう狡さを自慢する大人ではいたくない。
そんなことをしてたら、沙奈子や玲緒奈も、
『狡い人こそが賢い人』
みたいに思ってしまうかもしれないから。
確かに一真くんみたいに、狡い親を反面教師にできてる子供もいるけど、それが誰にでもできるわけじゃないから、
『世の中が悪くなっていってる』
なんてことを言う人もいるんじゃないのかな。だから沙奈子や玲緒奈が一真くんと同じことができる保証は何もないのも事実だと僕は思うんだ。だったら当然、僕は僕の子供たちに親として手本を示さなきゃいけないんだよ。それが親の役目だと思うから。
人間以外の動物は、しっかりと親が生き方の手本を示してるんじゃないかな。だったら人間も親が生き方の手本をちゃんと示す必要があるはずなんだ。責任があるはずなんだ。『一を教えたら十を理解しろ』なんて言ってられないはずなんだ。十を理解してもらいたいなら、確実に十を教えるべきだと思うんだよ。
それとも、その責任から逃れたいから、
『人間は他の動物とは違う』
って理屈を使うの?。だとしたらやっぱり狡いよね。本当にどこまでも狡い。
そういう狡さこそが、
『人間という動物の生き方』
なんだとしたら、人間という生き物が『万物の霊長』なんてそれこそ思い上がりも甚だしい気がする。偉くもなんともない気がする。ただ狡くて卑しいだけの生き物だとしか思えない。
でも、それだけじゃないと思いたい。




