二百四十五 玲那編 「新しい日常」
とりあえず何とか今日もしのぎ切った。それだけで十分だった。帰りに玲那のところに行きたかったけど、面会時間はとっくに過ぎていたから諦めるしかなかった。でも明日は三人で玲那に会いに行こう。
家に帰ると、「おかえりなさい」と二人で迎えてくれた。二人の無事を確認できて、僕もホッとした。これからもこういう毎日を続けていこうと思った。
お風呂に入って沙奈子を膝に寛いで、10時過ぎには三人で横になった。沙奈子が寝付いた後、絵里奈と少し話し合った。会社でのこととか、玲那の様子とか。
玲那に大きな変化はないとのことだった。ただ、医師の話によると、包丁で自分の喉を突いた際、声帯がズタズタになってしまったから、恐らくもう普通に喋ることは出来ないだろうと言われたということだった。
その話をしてた時、当たり前のように絵里奈は泣いてた。けれど僕はもう、何があっても受けとめると決めてたから、玲那が喋れなくなると言われても、『そうか…』と思っただけだった。
そう思いつつも、今の沙奈子と同じ歳の頃から苦しんで苦しんでそれでも何とか生きてきたのに、この上さらに声まで奪われるとか、玲那が一体どんな悪いことをしたんだって言うんだ!。って風に思う自分もいるのを感じてた。それと同時に、それを嘆いても憤っても何も変わらないことを理解している僕が感情を抑え付けているのが分かった。
ここでショックを受けなかったり怒ったりしないことを薄情だとか冷たいとか思う人もいるかもしれない。でも、それは何の解決にもならないことを僕は思い知っていた。誰にもぶつけられない感情なんて、自分自身を痛めつけるだけだ。僕は今、そんなものに振り回されてるわけにはいかないんだ。
自分の思い通りにならないからって切り捨てたり罵ったりする人間と同じことをするわけにはいかない。今の玲那を受けとめるには、その覚悟が必要なんだ。
僕が以前見た悪夢の、10歳の頃の姿の玲那が喪服のような服を着て血まみれの包丁を持ち、しかもそれで自分の喉を刺して倒れるのを鉄格子の外から僕と沙奈子と絵里奈が見てるという、今回の事件との奇妙な一致に関しても、もうどうでもよかった。それが偶然だろうと予知夢だろうと、今の状況を防げなかったのなら何の意味もないし価値もない。どうしようもない嫌な夢でしかない。そんなものに気持ちを向ける余裕も僕にはない。
僕は今、人としての当たり前の感情を無視してでも、家族を守る。玲那を守る。他の誰でもない、僕自身がそうしたいから。そっちの方が重要だから。
でもそうやって冷静に客観的にということを意識してると、今度は玲那の実のお父さんのことが、別の形で頭をよぎり始めた。怪我の具合とか、玲那をどう思ってるのかとか。
ただ、そちらの方も、全治一ヶ月ということだから、命に別状はないということだろう。腹部を刺されて一ヶ月で完治できるなら、実はそれほど深刻な怪我でもなかったのかもしれない。だけどそういうのとは別に、やっぱり怪我をさせてしまったことについては良くないことだとも思う。今回はたまたま命までは失われなかっただけで、最悪の事態だってありえたのは間違いないはずだ。それを思うと、結局はあの時、玲那を引きとめてあげられなかった僕の責任だって思ってしまう。
実のお母さんが亡くなったんだから、どうしても行かなきゃと思ってしまうのも不思議じゃない。実のお父さんと顔を合わせることが危険なことだと分かってても、玲那にしてみればそうするしかなかったのかもしれない。そこで僕が『行くな!』と命令してあげられたら、あの子はそれを拠り所にして行かない判断ができた気もする。
もちろんそれも『たられば』に過ぎないから今さら言っても仕方ないのも分かってるけどさ。
なんて、そんなことを考えてたら次は、玲那の実のお母さんが急に亡くなった理由が途端に気になってきた。そう言えばどうして亡くなったのか、その理由を聞いてなかった気がする。病気なのか事故なのか。どうしてこのタイミングなのか。
絵里奈との養子縁組を何とか成立させる為に、自分の実際の生年月日が絵里奈よりも一日遅れの10月17日だったということを、実家に置いてあるはずの母子手帳で確認しに行こうと決意したにも拘らず実際には踏ん切りが付けられないほどだったんだから、実のお母さんが亡くならなかったら玲那が実家に帰ることは当分なかった気がする。しかも、もし行くとしても、実のお母さんが亡くなったなんていう大変な状況の中で行く必要もなかったはずなんだ。
そういうことも気になりつつ、僕はようやく眠りにつくことができたのだった。
土曜日の朝。僕たちは努めて普通に振る舞ってた。焦っても落ち込んでも状況は好転しない。新しい情報なり動きなりがない限りは、穏やかに時間を過ごすことを心掛けるべきだと思った。
幸か不幸か、僕たちは辛い状況に置かれることには慣れている。そんな状態でも一日一日を過ごすことに慣れている。だからそうするんだ。玲那が帰ってくる場所を守るために。
三人で朝食を食べて掃除をして洗濯をして沙奈子の午前の勉強をして、そして玲那に会うためにみんなでバスに乗った。
集中治療室のベッドで寝ている玲那に、特に変化は見られなかった。でも、沙奈子と絵里奈を玲那の傍に残して僕だけで病院側からの説明を受けた時に言われたのは、体の方の容体自体は安定してるということだったし、危険な状態は脱したと思ってもらっていいという、少しホッとできる内容だった。だから今日明日中にも、一般病棟に戻れるそうだ。
ただし、玲那が殺人未遂事件の容疑者ということもあって、病院側としても予期せぬトラブルは回避したいと考えて個室に入ることになるらしい。その上で、事情が事情なので個室の料金までは請求しないものの、意識が戻れば速やかに退院なり転院なりしてほしいというような感じのことは言われた。玲那や僕たちの事情とは無関係な病院側がそういう態度に出るのも、もちろん気分は良くないけどここで言い争っても仕方ないと思って素直に受け入れた。
とは言え、退院するにしても転院するにしてもその後のこととかどうすればいいのか全く見当もつかなかったけれど。
それから玲那のところに戻ってガラス越しだけど「また来るよ」と声を掛けて、僕たちは家に帰った。その後も、沙奈子と絵里奈が一緒に作った昼食を食べて沙奈子の午後の勉強をして、三人でスーパーに買い物に行ってと、とにかく普通の生活をした。
夕食の後で山仁さんに電話をすると、またみんなで集まっているのでよかったら来てくださいと言われて、沙奈子と絵里奈も連れて山仁さんの家に行った。そこには大希くんと千早ちゃんもいて、沙奈子を歓迎してくれたのだった。




