二千四百四十三 沙奈子編 「そのどちらも」
三月六日。月曜日。晴れ。
僕や沙奈子たちが『当たり前のこと』としてできてることができない人がいるのは事実だと思う。そして、他の人たちが当たり前にできてることが僕たちにはできなかったりするのも事実だと思う。そのどちらも確かに事実なんだよ。
でも、誰かに対して『他人の気持ちが分かる人になりなさい』『他人の痛みが分かる人になりなさい』と強要する人は、それを強要される相手の気持ちも分かっていないし、相手の痛みも分かっていないとしか思えない。分かっていないどころか、想像することさえできてないんじゃないかな。想像さえしないからそんなことができてしまうんじゃないかな。分かっていれば、想像できていれば、そんなことできないと思うんだけどな。
だから僕は強要するんじゃなくて、まず自分が手本を示すんだよ。そうしているうちに沙奈子も玲緒奈も真似できるようになってくると思うし、僕がやってるそのままにできなかったとしても、それ自体が、『できる人とできない人がいる』ということだしね。
沙奈子ももちろん、僕とまったく同じようにはできてない。相手にとって分かりやすい表情を作ってちゃんと自分の思ってることとか気持ちとかを伝えることもできないし、直そうと思っても沙奈子自身にもどうにもできないんだ。いまだに表情がそこまで自由に動かないんだよ。
『他人の気持ちが分かる人になりなさい』『他人の痛みが分かる人になりなさい』と大きな声で言う人が、沙奈子が誰が見ても分かるような表情をできてないことについて、
『相手の気持ちを考えたことがあるの!?』
的に非難するようなことがあったら、それは『沙奈子の気持ちも分かってない』し、『沙奈子の痛みも分かってない』よね。そういう人って結局、
『他人の気持ちや痛みを分かろうとしてる自分に酔ってる』
だけにしか思えない。そして僕がそう思ってしまうこと自体、きっとその人にとっては『嫌なこと』だろうから、『不快なこと』だろうから、僕はその人の気持ちや痛みを分かってない証拠だとも思う。
僕がそうなんだから、沙奈子や玲緒奈に対して『他人の気持ちが分かる人になりなさい』『他人の痛みが分かる人になりなさい』とは言えないし、ましてや強要なんてできないんだ。沙奈子や玲緒奈にそうなってほしいと思うなら、僕自身がまず、沙奈子や玲緒奈の『気持ち』や『痛み』を分からなきゃ、分かろうとしなきゃ、駄目だよね。
『他人の気持ちが分かる人になりなさい』『他人の痛みが分かる人になりなさい』と強要するのは、酷い矛盾だよね。




