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僕に突然扶養家族ができた訳  作者: 太凡洋人
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二千四百四十二 沙奈子編 「何か違う気がする」

三月五日。日曜日。晴れ。




確かに一真かずまくんの言うとおり、自分で命を絶ってしまうような人の気持ちや事情は、『無関係な他人には分からない』というのが本当のところだと思う。


『他人の気持ちが分かる人になりなさい』


『他人の痛みが分かる人になりなさい』


とよく言われたりするけど、僕はその言葉の浅はかさや薄っぺらさを感じてしまってまったく共感できないし、沙奈子や玲緒奈れおなに対してもそういう言い方をしたいとは思わないんだ。言葉にしてしまうと何か違う気がするんだよ。


そうじゃなくて、それを分かってもらいたいと思うなら、自分の振る舞いで示すべきだって、手本を示すべきだって、そう強く感じるんだ。


『平和な世界を作る』とか言ってる人たちが罵詈雑言を並べたり暴力を振るったりしてるのを見ると、


『ああ、この人たちにとっても『平和』って、『自分たちに都合のいい人しかいないこと』なんだな』


って思ってしまったりもするのと同じでさ。


『他人の気持ちが分かる人になりなさい』『他人の痛みが分かる人になりなさい』と口にしながら気に入らない相手のことは攻撃していいと思ってるような人たちのことなんて、信用も信頼もできないよ。そんな風に喧伝するんじゃなくて、自分がただそれを実践すれば、少なくとも自分の家族や身近な人たちには伝わるんじゃないかな。そうやって伝われば、個人がすることとしてはもう十分だって感じる。


そうやってみんなが自分の家族や身近な人に手本を示していければちゃんと広がっていくんじゃないの?。なのに、まったく見ず知らずの相手にまで大きな声を張り上げて『他人の気持ちが分かる人になりなさい』『他人の痛みが分かる人になりなさい』とか喧伝しなきゃならないとかせずにいられないとかって、結局は人間というものを信用も信頼もしてないからだよね?。自分と同じことができると思ってないからだよね?。『他人の気持ちが分かる人になりなさい』『他人の痛みが分かる人になりなさい』と声を大にして言わずにいられないというのは、それをしてる当人が人間を信用も信頼もしてないっていう証拠にしか感じないんだけどな。


正直、僕も本心からは人間というものを信用も信頼もしてない。してない中で、例外的に『信用してもいいかな』『信頼してもいいかな』って思える相手がいるだけなんだよ。そして僕の場合は、だからこそ『他人の気持ちが分かる人になりなさい』『他人の痛みが分かる人になりなさい』って言葉だけをいくら大声で叫んでも無駄だろうなと感じてしまうんだ。



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