二百四十四 玲那編 「学ぶはまねぶ」
たらればを言っても仕方ないのは分かってる。玲那の過去を打ち明けてもらおうとしなかったのは、結局は僕がそれを知りたくなかっただけだっていう気もする。だから相談してくれなかったことを責める資格が僕にあるとは思わない。
ただ、『それさえ知ってれば』という後悔はもうしたくないと思った。
玲那が経験したことを思うと、僕の胸の奥の深いところにざわざわとした何かが湧き上がってくるのを感じる。もし今、僕の目の前に玲那の実のお父さんがいたとしたら、僕も冷静でいられる自信がない。玲那がしてしまったようなことを絶対にやらないという自信もない。それを考えれば、どうしても玲那を責める気にはなれなかった。むしろ本当は実のお父さんの方が裁かれなきゃいけないはずだよな。
だけどそうは思いつつも、それをするためには玲那の過去を、玲那がされてきたことを警察とかの前で詳しく説明しなきゃならなかったはずだ。それをあの子にさせられるのかと思ったら、とても『そうしろ』とは言えそうになかった。この種の被害がどうしても泣き寝入りになりがちだっていうのも当然だっていう気がした。
僕は、あの子がそんな目に遭ってきたからって今までと違った目で見ようとは思わない。元々そうかも知れないっていう予感があったこともそうだけど、過去の経験も含めてあの子なんだから、何があったって玲那は玲那だ。ましてやあの子は、そんなに苦しい経験をしてきたのに、あんなに明るくて朗らかで優しい子なんだ。それを昔に何があったからって変な目で見る方がおかしいと思う。例え誰がそういう目であの子を見たとしても、僕はそんなことを見習いたくない。
絵里奈が言ってた。以前、玲那が語ってた、父親といつまで一緒にお風呂に入ってたとか、父親との関係性とか、そういうのは一部を除いて後からあの子が頭の中で思い描いた空想の産物だったって。実際のそれを思い出したくなくて、よく耳にするような一般的な父と娘の関係を基に『自分もそうだったらいいのに』っていうのを何度も何度も思い描いて、それを本当の記憶のように他人に語るようになったんだって。そうすることで辛い過去に蓋をしてなるべく見ないようにして、あの明るくて朗らかな玲那は作り上げられていったんだって。
そのせいで、玲那の古い記憶は今、現実と虚構の区別が曖昧になってるらしい。されたことの記憶ももちろん残ってるんだけど、だからこそ今回こんなことになってしまったはずなんだけど、後から自分で作った嘘の記憶との境界があやふやになってしまってるということだった。そして、玲那の明るくて朗らかな部分は、嘘の記憶と、絵里奈や香保理さんとの幸せな記憶を土台にして作られた仮面なのかもしれないとも絵里奈は言っていた。
それを聞いたからと言って、やっぱり僕の玲那に対する気持ちは変わらなかった。今の玲那の姿が仮面だとしても、あの子が生きていくために必要だと思って作り上げたものなら、僕にそれをどうこう言わなきゃいけない理由もなかった。だって、それって結局、僕が何も考えないように感じないようにしてとにかく毎日を平穏にやり過ごすことを心掛けてたやり方に近いものかもしれないから。現実を見ないようにするという意味ではたぶん同じなんじゃないかなとさえ思う。
そういう意味でも、僕たちが似た者同士だっていう実感はむしろ強まった気さえする。
そして金曜日の朝。今日もあえていつも通りに振る舞う。この何気ない日常を繰り返すことを、僕たちは望んでいるからだ。イベントは要らない。むしろ大きすぎるイベントが立て続けでお腹いっぱいどころか胸焼けしてる。実際には胸焼けどころじゃないけどさ。
沙奈子も、落ち着いてはいるけどやっぱり笑顔はなかった。ただ時折、ふっと表情が柔らかくなることはあるからまだ安心できた。
「昨日も言った通り、今日から、お母さんが仕事から帰ってきてからお姉ちゃんのお見舞いに行ったらいいからね」
念の為にそう言うと、沙奈子は黙って頷いてくれた。
実を言うと、絵里奈としては、いつものバスが市民病院の前を通るから、いったんそこで降りて玲那のお見舞いに寄ってから帰ろうかと思案してたらしい。ただそれだと沙奈子を迎えに行くのが遅くなってしまうのでどうしようかと迷っていたところに明確な答えを得られたことで逆にホッとしたりもしていた。
土日は、みんなで一緒にお見舞いに行こう。近くまではいけなくても、とにかく玲那に会いに行こう。なるべく傍にいるようにしよう。それが本来、僕たちのあるべき姿っていう気もするから。
「じゃ、行ってきます」
沙奈子から『いってらっしゃいのキス』をもらい、僕たちも『いってきますのキス』を返して、僕と絵里奈は会社へと向かった。会社に行けば絵里奈は大変かも知れないけど、無理はしなくていいと念を押してるからさすがに大丈夫だと思う。『今日で辞める』と言い出したとしても一向に構わない。むしろそうしてくれた方が安心する。だけど絵里奈の表情を見る限り、玲那の時のような不穏さはまだ感じない。だからとりあえず余裕はあるんじゃないかな。
そう思っていたら、僕も玲那といつも社員食堂で一緒だったことはさすがに把握されてたみたいで、オフィスに着くなり上司が僕の傍にやってきて、
「山下君も、あんな事件を起こす人間と親しくしてるといろいろ大変だろうね」
とか言ってきた。ああ、いよいよ僕の方にも来たんだなと思った。でも、英田さんが抜けたばかりでその補充もできてないからか、今すぐ辞めさせようとかいうほどの圧力は感じなかった。だけど間違いなく仕掛けては来たんだろう。
だから僕は、心を閉ざした。沙奈子が来る以前の自分を思い出し、その頃の僕がどうしていたのかを思い出して、再び殻に閉じこもるようにした。以前と完全には同じじゃなくても、とにかくこの鬱陶しいのをスルーさえできればそれでよかった。
まったく、せっかく絵里奈や玲那が『柔らかくなった』って言ってくれてたのに、これで元の木阿弥じゃないか。
そんなことも頭の隅では考えつつも、今は無駄に心を乱されないようにするのが最優先と考えた。
昼休憩。絵里奈はやっぱり沈んだ顔をしてた。
「覚悟はしてたつもりですけど、きついですね…」
具体的にどんなことを言われたかまでは教えてくれなかった。ただ、彼女の様子を見る限りじゃロクなことを言ってないんだっていうのはすごく感じた。
本当に、いい大人がどうしてそんな下らないことをするんだろう。そんなことをしてたら子供に対して『イジメは良くない』とか言えないじゃないか。子供に対して示しがつかないじゃないか。
『学ぶはまねぶ』。人は真似をすることで学ぶんだと聞いたことがある。子供は大人の姿を見て人間としてどう生きていくのかっていうのを学ぶはずだよね。なのにその大人がこんなことで恥ずかしくないのかと、僕は思ったのだった。
 




