二千四百三十六 沙奈子編 「表現できてない」
二月二十七日。月曜日。晴れ。
今日は少し暖かい気がする。
『誠意』とか『気遣い』とか『相手を敬う』とか『人に優しく』とか、それを表現する言葉自体はいくつもあるしされてるけど、でも実際に言葉だけで表現されて説明されて本当に理解できてる人ってどれくらいいるのかな?。少なくとも僕は理解できてなかった。理解できてなかったのが今なら分かる。
『誠意』って何なんだろうね?。どうすることが誠意なんだろうね。どういうのが『誠意がある』ってことなんだろうね。誠意って言葉を口にしてる、それを大事だと口にしてる、自称『誠実な人』が本当に誠実だったみたいな印象はないんだけどな。
『誠意をもって』『誠実に』なんてスローガンを掲げてる政治家とかも少なくないけど、スローガン通りの誠意とか誠実さとか感じる?。僕は感じないんだ。ただの『言葉の綾』にしか思えない。実際には嘘も吐くし、口にしたことも守らない。そしてそれが当たり前だと考えてる人のどこに誠意とか誠実さがあるって言うんだろう?。
だから、言葉だけでいくらそれを語っても、実際の誠意や誠実さは表現できてないと思うんだ。表現できてないなら伝わらなくても当然だよね?。
何より、僕がこうして延々と『綺麗事』とか言われるようなのを語っていても、僕に誠意や誠実さを感じない人はいくらでもいるんじゃないかな。『鬱陶しい』とか『ウザイ』とか感じる人にとって僕は『誠意があって』『誠実な』人なのかな?。
自分でも、自分自身に誠意や誠実さがあるとは思ってないんだよ。僕はただ、僕の大切な人がつらい思いをしてるのを見るのが嫌なだけなんだ。だからむしろ『エゴイスト』と言った方がずっと近いと思う。
そんな僕に育てられてる沙奈子や玲緒奈が僕と同じくエゴイストに育っても、それ自体が当然のことだと感じてる。
でも、だからこそ、僕は言葉だけじゃなくて実際の態度と振る舞いで手本を示さなきゃいけないと実感してるんだ。
すごく我の強い玲緒奈が、ただただ我儘放題の暴君になってしまっていないのは、そんなことをしなくても自分以外の人と関われるというのを実際の行動と振る舞いで手本を見せてるからなんじゃないかなって気がしてる。
むしろそうやって実際の行動と振る舞いで手本を見せるからからこそ、ただそれを真似するだけである程度は再現できるんじゃないかな。
言葉というのは不完全で、受け取る側の解釈一つでどうにでもなってしまう部分が間違いなくあるはずなんだ。『誠意』とか『誠実さ』という言葉をいいように宣伝に利用してる人がいるのも、
『誠意や誠実さという言葉をいいように利用しても問題ない』
と、その人が解釈してるからだろうし、何よりその人にとっての『誠意』や『誠実さ』は、多くの人がイメージしてる感じのじゃないのかもしれないしね。




