二千四百二十一 沙奈子編 「極端に偏って」
二月十二日。日曜日。晴れ。
『ポータブルトイレ』については、案の定、ほとんど使われることなく放置されてる状態だ。だけど、『非常用のそれ』を使わずに済んでるというのは『使う必要がない』ということだからね。むしろ無駄になってくれた方がいいんだと思う。
家の裏に『お風呂替わり』のつもりで設置したビニールプールだって、結局は夏の間に水遊びするために使うだけになってるし。
それは確かに『無駄遣い』なんだとしても、人生においてまったく無駄をなくすことは簡単じゃないはずだけどな。
『そうやって実際にやってみて確かめる』ということ自体は無駄じゃないと思うし。
沙奈子の『作品』は、ほとんどそのまま残してる。沙奈子自身は、
「すごく下手で恥ずかしいから見たくない……」
と言って、『捨ててしまって構わない』と思ってるらしいんだけど、僕としてはとても捨てられないんだ。だから彼女の目に留まらないように箱に仕舞って押し入れに片付けてある。それこそ、果奈用に作った『紙製の洋服』もね。
これも『親心』の一つなのかもね。本人が『要らない』と言ってるなら残しておくこと自体が無駄なはずでも、それをただ『無駄だから』と切り捨てられるのは僕としては納得いかないし、自分がそうやって無駄なことをしてるのに、他の誰かに対して、
『無駄は一切許さない!』
とは言えないよ。
その一方で、仕事とかの場合にはコスト削減は大事なことだろうから無駄を省こうとする姿勢も重要なんだろうけどね。それも理解したいと思ってる。
だからやっぱり、
『どちらか一方だけが絶対に正しい』
というのはないんだろうなって感じるんだ。なにしろ、『SANA』でも、企業としての体裁を整えるためにオフィスを飾ったりしてるし。山下典膳さんのドールのミニギャラリーを作ったのだって、『業務上必ず必要』とは言えなくても、こっちにオフィスを置いてた時に突然訪ねてきたお客に『それっぽくないですね』的なニュアンスのことを言われてしまったりしたことを考えても、『それらしく装う』こと自体も単なる無駄ってわけじゃないのも分かるよ。
どちらか一方に極端に偏ってしまうことは実はあまり好ましくないというのもわきまえていたいと思う。
『その場の空気を読むこと』
とか、
『その場のノリを大事にすること』
とかも、それだけを金科玉条のように考えてたら、『バイトテロ』や『迷惑行為』みたいなことだって、『その場の空気を読んだ』『その場のノリを大事にした』ってことでできてしまったりするだろうからね。




