二千三百五十三 SANA編 「典型的な犯罪者の」
十二月六日。火曜日。晴れ。
暴力で従わせようとすることを『躾』だと称していたのに、その当人が『虐待の容疑』でより大きな『公権力という力』の前にはまったく無力になるというのが本当に、
『力で誰かを従わせようとする行いの本質』
を物語っているんだと実感した。
一歳とかの乳幼児に、健康な大人が力で負けるはずがないよね。そして一歳とかの乳幼児を相手に力を見せつけて横暴に振る舞ってた当人が、ただの一個人の力じゃ勝てるはずのない公権力の前になすすべがないなんて、まさしく『ブーメランとして返ってきた』感じなのかな。
なのにきっと、当人は自分の正当性を主張して言い訳をするんだろうって気がする。『躾』と称して暴力をふるっていた子供には弁明の余地を与えたの?。自分はこれから弁護士とかに守ってもらおうとするのに、子供にはその機会を与えたの?。与えてないはずだよね。そういうところがおかしいと思うし卑怯だとしか感じない。
どうしていい歳をした大人がその程度のことも考えられないんだろう。どうして自分のしようとしてることを客観的に考えようとしないんだろう。目先の感情ばかりを優先して自分の思い通りにするのが正しいんだとか、本当に意味が分からない。
改めて思う。自分のしたことが正しくなかったと判断されたから罪に問われることになったのに、弁護士という力を頼って正当性を主張して身を守ろうとするんだな。もちろんそれは法律で保障された権利なんだろうけど、じゃあどうして、躾と称して暴力をふるった子供に対してはそうやって自分の権利を守る機会を与えなかったんだろうね。なんで勝手に断罪しようとしたんだろうね。そうやって身勝手に断罪することを正当化するなら、自分の権利を主張して守ってもらおうとするのはおかしいんじゃないかな。
弁護士を雇って弁護してもらうのは当然の権利だというのは僕だって知ってるよ。だけどそうやって権利を盾に弁護士に弁護してもらおうとしてる当人は、子供に対して同じようにしたの?。子供の権利を守ろうとしたの?。してないよね?。してないから暴力をふるうなんてことができたんだよね?。
『躾と称した暴力』のおかしさがものすごく浮き彫りになってる気がする。
『相手の権利を蔑ろにしておきながら自分の権利は主張する』
典型的な犯罪者の行いじゃないのかな。それって。
『悪いことをしたら罰が与えられるのが当然だ』
と言いながら、自分が罪に問われたら権利を主張して罰を免れようとする。体罰を正当化しようとする考えのおかしさを改めて痛感するよ。当事者の振る舞いがまさしくそれを表してる気がするんだ。




