二百三十四 玲那編 「起こってしまったこと…」
さすがに雪がすごくて変に出掛けると危ないということで、今日は千早ちゃんたちは来ないことになった。星谷さんから僕のスマホに電話があったんだ。沙奈子も少し残念そうだったけど、仕方ないと納得はしてくれてた。だから三人でのんびりと過ごした。
日が暮れて夕食も終わらせて、玲那がいない日曜日の夜。沙奈子もどこか不安そうに見えた。でももしかしたらそれは、僕や絵里奈が不安そうにしてるからかも知れない。なるべく普通に振る舞おうとは思うけど、どこかぎこちない気が自分でもしてた。
沙奈子と絵里奈がお風呂に入ってる間、僕の膝に玲那がいないことにひどく違和感を覚えてた。向こうに着いたというメッセージが昼過ぎに届いて以降、玲那からの連絡とかは無い。絵里奈の方からメッセージを送ったりしてたみたいだけど、返事はなかった。メッセージを見てる形跡さえなかったらしい。
とは言っても、やっぱりお通夜とかってなるといろいろあるだろうから、連絡がないのは仕方ないと自分に言い聞かせた。その時、ニュースを見るために点けていたテレビから、以前、市内で起こった女性への暴行事件の容疑者が逮捕されたとアナウンサーが言ってるのが聞こえてきた。
何気なくテレビに視線を向けると、容疑者は18歳の高校生ということだった。
『何を馬鹿なことしてるんだろう…、こいつのせいで家族も滅茶苦茶になるんだろうな…』
そんな風に思いながら、そのニュースを見てた。まったくの他人事として。
沙奈子と絵里奈が上がった後に僕もお風呂に入って、それからまた沙奈子を膝にして寛いでた。だけどやっぱり完全には寛げなかった。玲那からの連絡はまだない。それを気にしないようにしてるけど、不安はどうしても消えなかった。
それは沙奈子も同じだったのか、莉奈の服作りが思うようにはかどらない様子だった。
「今日はもうやめとく…?」
絵里奈にそう聞かれて、沙奈子は黙って頷いた。それからは絵里奈と一緒に、人形でお話をする形で遊んでた。なるべく楽しそうな話になるように絵里奈が気を遣ってるのが僕にも分かった。
10時前になり、結局、玲那からは連絡がないまま今日は寝ることになった。三人で横になった時、沙奈子が絵里奈に聞いてきた。
「れいなおねえちゃん、帰ってくるよね…?」
それは、沙奈子の正直な不安だったんだと思う。そして僕と絵里奈の不安でもあった。口に出さないように、それどころか頭にさえ思い浮かべないようにしてた不安だった。
僕は沙奈子の頭を撫でながら言った。
「大丈夫。帰ってくるよ。玲那お姉ちゃんは大人だから」
そう言った僕に振り返って、沙奈子は「うん…」と小さく頷いた。それから絵里奈の胸に顔をうずめるようにして、彼女は眠ったのだった。
月曜日の朝。僕も絵里奈も、昨夜はあまり眠れなかった。玲那のことが心配だったからだ。絵里奈のスマホにも僕のスマホにも、着信もメッセージも入ってなかった。
それでも沙奈子をなるべく不安にさせたくなくて、できるだけ普通にした。朝の用意を済ませ、『いってらっしゃいのキス』をもらって『いってきますのキス』を返して、仕事に向かった。雪はまだかなり残ってた。部屋の前の大きな雪ダルマもほとんどそのままの形で残ってた。沙奈子にも『気を付けてね』と言っておいた。雨の日用の靴を履いてもらうようにも言ってある。
さすがにバスが通る道路は雪も残ってなくて思ったほどはダイヤも乱れてなかった。念の為に家を早めに出た分、早く会社に着いた。玲那のことは、絵里奈が忌引きの手続きをするということだった。親だから今週いっぱい、休みが取れる。
僕の方も今日ばかりは英田さんのことを考えてる余裕はなかった。ちょっと油断をすると頭の中が玲那のことだけになってしまって手が止まってしまう。僕が今、いくら彼女のことを心配しても何も意味もないのは分かってる。でもついそうなってしまうんだ。
単に忌中だから喪に服してるだけなんだと自分に言い聞かせる。あの子はちゃんと大人だから大丈夫って思おうとする。僕が気を揉んでもどうしようもないから今はとにかく仕事に集中する。それしかできない。できないんだ。
やけに時間が過ぎるのが遅く感じつつとにかく午前の仕事は終わらせて、社員食堂に向かう。そこには、縋り付くような目を向ける絵里奈が待っていた。
「玲那からの連絡がないんです…。電話しても電源入ってないみたいで……」
目を伏せて泣きそうな顔をして彼女は言った。そんな彼女に僕は、
「まだ二日目だよ。それに昨日がお通夜だったら、今日は本葬ってことじゃないかな。だからそれどころじゃないんだと思うよ」
と語り掛けた。だけどそれは、絵里奈に対して言ってるというよりは、僕自身に言い聞かせようとしてるものだった。今はとにかく玲那を信じよう。あの子なら大丈夫だって…。
けれど結局、次の日になっても玲那からの連絡はなかったのだった……。
火曜日。時間が過ぎるごとに増してくる不安を無視するように仕事に集中し、残業も終わらせて僕は帰りのバスに乗り込んだ。
とその時、僕のスマホに着信があった。まさかと思って慌てて取り出すと、それは絵里奈からの着信だった。
「…絵里奈?、どうし…」
『どうした?』って聞こうとして、それは最後まで言えなかった。絵里奈に遮られて。
「玲那が…、玲那がぁ……」
もう、その声の感じでただ事じゃないって分かってしまった。僕の体から、ざーっと音を立てて血の気が引いていくのが分かった。言葉が続けられない絵里奈に『何があったんだ?、玲那がどうしたんだ?』って問い掛けそうになって、でもそれは言葉にはならなかった。聞くのが怖かったんだと思う。
電話の向こうで、絵里奈が泣きじゃくってるのが分かった。そして、「お母さん、お母さん…」と、沙奈子が絵里奈に声を掛けてる様子も伝わってきた。僕は自分の体がガタガタと震えだすのを感じてた。
「大丈夫ですか?。気分が悪いんですか?」
隣に座っていた知らない高齢者の男性に声を掛けられても、「いえ、大丈夫です…、大丈夫ですから…」としか答えられなかった。本当は大丈夫なんかじゃなかったけど、これはどうしようもできないことだから…。
何とか家に辿り着いて玄関を開けると、沙奈子が僕に跳び付くように抱き付いてきた。
「おねえちゃんがぁ……」
沙奈子も、それ以上言葉にならなかった。部屋の奥を見ると涙でぐちゃぐちゃの顔になった絵里奈が僕を見てた。両手は何かしようとしてそのまま止まってしまったみたいに顔の前に掲げられたままだった。
その向こうで、点けっぱなしになったテレビから、アナウンサーの声が聞こえてきた。
「先ほどもお伝えしましたが、城東署は本日、16日の正午頃に父親である伊藤判生さんの腹部を包丁で刺し重傷を負わせたとして、伊藤さんの長女である伊藤玲那容疑者26歳の逮捕状を取ったと発表しました。玲那容疑者は、伊藤さんを刺した後、自らの首も包丁で刺し、現在意識不明の重体ということで、容疑者の回復を待って事情を聴く方針です」




