二千三百三十 SANA編 「常に死と隣り合わせ」
十一月十三日。日曜日。雨。
本当に、『生きる』というのは常に死と隣り合わせなんだと思う。例えば、いつもと違ってどこかに遊びに行けばその出先で事故に遭って命を落とすかもしれない。
いつもと違うことをすれば、それをしなければ遭遇しなかったはずの危険に直面して命を落とすかもしれないのは、事実だよね?。それだけ『命を落とす確率は上がる』ということだよね?。
でも、だからといって『何もしない』というのもどうなんだろう?。何もしなければ危険に遭遇する確率は上がらないかもしれなくても、そんなことが本当にできるのかな?。
とにかく、普段と違うことをすればそれだけ何らかの形で危険が増すのはあるはずなんだ。ましてや、『子供を生む』というのは、昔に比べれば随分と確率は下がったらしいけど、でもやっぱり、出生数十万人当たり五人という形で亡くなってる妊産婦がいるそうで、命懸けであることには変わらない。
だからって、『死ぬかもしれないから子供を生むのはやめよう』っていう流れにはなっていないよね?。『死ぬかもしれないから』じゃなく、『育てられないから』『こんな社会に子供を送り出すのは可哀想だから』みたいな理由で子供を生むのをためらってる人が多いんじゃないかな。
千晶さんも、『育てられないから堕胎す』って考えてるそうだし。『死ぬかもしれないから』という発想じゃないと、千早ちゃんから聞く話だと感じる。
今の時代、子供を持つことに『メリット』を見出せない人も少なくないみたいだね。だけど僕は、メリットがあるから玲緒奈に来てもらったわけじゃないんだよ。それは断固として『違う』って言わせてもらう。
たとえ、玲緒奈の散歩中に僕が事故で死ぬようなことがあるんだとしても、そういう危険性が高まるんだとしても、それを心配して玲緒奈に来てもらうことをためらったりはしなかった。
メリットのあるなしは、常に決断の根拠になるわけじゃないよ。明確なメリットを感じなくても、敢えて選択することだって人生にはあるはずだけどな。
ましてや先のことなんて結局は誰にも分からない。自分の選択がどう転ぶかなんて、その時になってみないと分からない。だったら大事なのは、自分の選択を自分自身で受け止めることじゃないのかな。
沙奈子を受け入れたことだって、最初は何度も後悔した。彼女の面倒を見るのを拒否して施設に預かってもらうべきだったと考えたことだってなかったわけじゃない。でも、沙奈子は僕の娘として今もここにいる。その決断を、僕は受け止めてるんだ。




