二百三十一 玲那編 「自制心とタガ」
お風呂の後、ちょっとニュースを見ようと思ってテレビを点けたら、市内のマンションで男が侵入して女性が乱暴されたって事件が流れてた。ここからそう遠くない場所だったこともあって、僕たちは何だか嫌な気分になってしまったのだった。本当に、どうしてこんなに事件が多いんだろうな。
でも、事件とか事故っていうのはいつでもどこでも起こってて、それが目に入るかどうか、耳に届くかどうかの違いでしかないのかもしれないけどさ。
だけど思う。こんな風に事件を起こしたら、自分の家族の人生だって滅茶苦茶になってしまうよな。なのにどうしてそんなことするんだろう?。僕にも何度か危ない時はあった。頭に血が上ってキレそうになったこともある。児童相談所の件なんて、本当に危なかった。あそこで塚崎さんが来てくれてなかったら、それこそどうなっていたか分からない。
冷静なというか、それなりに頭で考えられるだけの余裕があればまだ何とかなる。沙奈子のことを思い出せればそれだけ抑えられる。僕が何か事件を起こせば沙奈子が苦しむことになる。それが分かるから抑えられるんだ。
けれど、もし、それが頭に浮かばなかったら?。沙奈子のことも頭に浮かばないくらいにキレてしまったら…?。
考えるだけで恐ろしい。だからそういう状況にならないように、前もって回避するように心掛けたいと思った。たとえそれが、逃げだとしても構わない。逃げることで沙奈子を苦しめるような状況を避けられるんだったら、むしろ僕は逃げる方を選ぶ。僕は自分のプライドとかよりもこの子が大事だ。ううん、今は沙奈子だけじゃない。絵里奈も、玲那も、みんな苦しめたくなんかない。僕はそう思ってる。
なのに、事件を起こす人はいる。そういう人たちは、何を思ってそんなことをするんだろう…?。特にさっきのニュースみたいに女性に乱暴するとか、咄嗟にとか頭に血が上ってとかいうのとも違う気がする。単純に自分の欲求を抑えきれなかっただけじゃないのか?。そんな自分の欲求の方が、家族とかよりも大事なんだろうか…?。
分からない。僕にはそれが分からない。今でこそ絵里奈に対してはそういう気分にもなれるけど、以前は本当に脳に欠陥でもあるんじゃないかと自分でも思うくらい、性的な衝動がなかった。でも絵里奈とならそんな気分になれるということは、たぶん無意識のうちにそういうものに蓋をしていたり鍵を掛けていたんじゃないかって今は思う。
とは言え、だからこその不安もある。もし今後、絵里奈以外の女性に対してもそういう気持ちになったりしてしまったらと思うと…。結婚してるわけだから、そういうのは不倫ということになるのか。刑法上の犯罪じゃないとは言っても、自分の家族や大切な人を苦しめるという点では変わりないんじゃないかな。どうしてそんなことをしてしまうんだろう…?。
僕には分からない。
確かに僕も、両親や兄のことを大切に思ってたことはなかった。両親が次々と病気で亡くなったことも、悲しむどころか嬉しいとさえ思ってしまってた。兄に至っては、沙奈子を僕のところに捨てていくような奴だから、もし何かあったとしてもむしろ『ざまあみろ』とか思ってしまう気もする。ああそうか、だから僕は、そういう形で家族とかが自分を抑えるためのタガとして当てにできないのを感じてたから、自分の感情とか気持ちとかを無視してそういうのに囚われないようにしていたのかもしれない。
だから怖い。守りたいと思える家族とか誰かがいなかったら、ううん、それどころか、家族や誰かを苦しめてやりたいとか思ってたら、果たして人はどれだけ自分を抑えていられるんだろうって…。
犯罪とかをする人って、結局、そういうことなのかな。本当に守りたい人がいないから、守りたいどころか逆に迷惑を掛けてやりたいとか思うような人しか身近にいないからそういうことができるのかな。
今もし、僕の傍に沙奈子がいなかったら、沙奈子だけじゃなくて絵里奈や玲那がいなかったら、僕はどれだけ自分を抑えられるかと考えると怖い。僕が面倒なことが嫌いで他人と諍いを起こすのが嫌いじゃなかったら、自暴自棄になって何もかも滅茶苦茶にしてやりたいとか思ってしまったら、自分を抑えられる自信がない。
大切にしたいと思える人、守りたいと思える人がいないことがどれだけ怖いことなのか、改めて感じられた気がした。
だから思った。自分の腕をボールペンで手加減なく突いてしまうような激しい衝動を秘めた沙奈子にとっての大切な家族でいたいって。この子が自分の中の衝動に負けないでいられるように、この子にとってのタガでいられるようにありたいって。それが結果として沙奈子を守ることになるんだって。そして僕自身も自分の衝動に負けないことが、この子を守るためには必要なんだ。
毎日毎日、辛いニュースは流れてくる。そういうことは世の中では当たり前みたいに起こってる。そういうのを見ることで、僕は毎日毎日、気持ちを引き締める。沙奈子を守るためには、絵里奈や玲那を守るためには、僕は自分を見失っちゃいけないんだってことを思い知る。
そうしてるからこそ僕は、他人を傷付けたり苦しめたりしたいと思わない。他人を傷付けたり苦しめたりしないことが、僕の大切な家族を守ることになるから。それを自分に言い聞かせる。
みんなに守りたい大切な人がいて、その人のために自分を抑えるんだって思えれば、嫌な事件ももっと減ってくれそうに思えるんだけどな…。
誰かを傷付けて苦しめれば、それが細菌やウイルスのように拡散していってさらに多くの人が傷付き苦しむようになるっていうのを、僕は実感させられていた。それを理解して強い気持ちで押しとどめないと、際限なく広がっていくんだと感じた。僕の両親は、実は僕のことどころか兄のことも本当は大切になんてしてなかったんだってことが、自分が沙奈子とこうして暮らしてきて分かってしまった。僕の両親は、自分の思い通りになるペットとかロボットが欲しかっただけだってことが分かってしまった。あんなに甘やかされてちやほやされてたように見えた兄も、本当は両親が自分たちの思うように操るためにそうしてたんだなって。
僕がもし、両親が兄に対してやったようなことを沙奈子にするとしたら…。沙奈子が、一緒にいたい、傍にいたい、自分の顔を見て話し掛けてほしい、一緒にお風呂に入って欲しい、お膝抱っこして欲しいとか思ってるのを面倒臭がって、玩具を買ってやるから我慢しろ、お小遣いをやるから我慢しろ、こっちの聞きやすい要求だったら何でも聞いてやるから我慢しろってやってたらどうなるかって考えたら…。
それは結局、この子の本当の願いを無視していいように操って苦しめて傷付けることになるんだなと分かってしまったのだった。




