二千三百七 SANA編 「切り捨てられると」
十月二十一日。金曜日。晴れ。
『親には感謝して当然』
もしそれが本当なら、『高齢者は切り捨てるべき』なんて発想は浮かんでこないはずだよね。だって、少なくとも今の高齢者の多くは『誰かの親』なんだから。親に感謝するなら、『切り捨てる』なんてできるとは思えないんだけどな。
確かに僕は自分の実の親に対しては感謝の気持ちなんてまったくないからあの人たちが切り捨てられるとしてもたぶん気にしないと思う。それを想像しても胸がざわついたりなんてことさえない。
だから僕は自分を『善人』だなんて欠片も思ってないし、善人だなんて思われるのは迷惑以外の何物でもない。自分が勝手に善人判定しておいて想像したとおりに振る舞わないからって『そんな人だとは思わなかった』とか言われても、ただの迷惑千万ってものだよ。僕は僕だ。誰かにとっての都合のいい人形でもロボットでもない。
僕は、それをちゃんと沙奈子や玲緒奈に分かっておいてもらわないといけないと考えてる。誰かのことを勝手に『こういう人だ』と決めつけておいてそうじゃなかったからといって『裏切られた』なんて一方的に恨みを抱くようなことをしてほしくないからね。
そんなことをしてて幸せなんかになれるとはまったく思わないよ。だって、自分以外の人は自分の思い通りになるわけないんだから。
自分以外の人を自分の思い通りにしようなんて、自分の思い通りになってくれるのが当たり前だと考えるなんて、途轍もない思い上がりでしかないんじゃないの?。
いったい、何様なの?。
自分の子供に対してもそうだよ。本人が望んだわけでもないのに勝手にこの世に送り出しておいて自分の思い通りに操ろうとか、正気とは思えない。自分は他の誰かの思い通りになんてならないクセにね。
どれほど危険だと説明しても、何人犠牲になっても、横断禁止のところを渡る人はいて、そして事故に遭って亡くなったりしてるのも、そういうことだよね。
どこかの会社の会長とか、どこかの芸能人とか、著名な人が亡くなってさえ、
『自分だけは大丈夫』
って考えるんだ。しかも大人が。そしてそういう大人の姿を見て、子供もそれを真似る。『それでいいんだ』って考える。
いったい、いつになったらそのことに気付くんだろうね。大人がそれに気付こうとしないから、
『切り捨てても惜しくない大人』
『切り捨てても惜しくない親』
って思われるんじゃないかな。
僕はそれが情けなくて仕方ないんだ。だから自分はそうならないようにしなくちゃと思うんだ。完璧じゃなくてもね。




