二千三百 SANA編 「人間である限り」
十月十四日。金曜日。晴れ。
僕は、相手を人間だと認めるからこそ、その人の言ってることが一から十まで正確で間違いのないものだと考えないようにしなきゃいけないと思ってる。
相手を人間だと思うからこそ、なにもかも自分の思い通りになってくれると考えるのは違うと思ってる。
『相手が何一つ間違ったこと正しくないことを口にしない』
とか、
『相手が必ず自分にとって都合のいいように振る舞ってくれる』
とか考えるのなんて、『相手のことを人間として扱ってない』と感じるんだ。沙奈子や玲緒奈を育ててるからこそ、なおさらね。
沙奈子も玲緒奈も、完璧に僕の思い通りに振る舞ってくれるわけじゃない。沙奈子の『おねしょ』がなかなか治らなかったことも、児童相談所で僕と引き離されそうになった時にパニックを起こして自傷行為に走ったことも、僕にとっては『都合のいいこと』なんかじゃなかった。玲緒奈なんてそれこそ毎日僕を振り回してくれる。
だけどそれ自体、二人が間違いなく人間だからそうなんだって思うんだよ。ロボットでも人形でもなく人間で、自分で考えて自分で行動してるから、それが必ずしも僕にとって都合のいいものになるわけじゃないってことのはずなんだ。その事実を受け止められてれば、自分の思い通りになってくれない程度のことでキレる必要もないと思う。それでキレるのは、その人を人間として扱ってないってことのはずなんだ。
絵里奈もそれは分かってくれてるけど、彼女自身が人間だからこそ、ついつい苛立ってしまうことがあるというのも認めなきゃいけない。幼児学習をしてる時に玲緒奈が集中してないと感じると絵里奈も不機嫌になってしまうというの自体を認めるからこそ、
「もうそこまでにしておいたら?」
と声を掛けるんだ。そこで、
『苛々するな!』
みたいに押し付けたって意味がないと思う。絵里奈だって頭では分かってるんだから。分かっててもつい、というのは人間なら誰しもあることじゃないの?。僕だってあるよ。それは紛れもない事実なんだ。
完璧にはなれないからこそ、できる範囲で何とかするしかないんだよ。人間である限り。
だったら、沙奈子や玲緒奈だって完璧じゃいられない。完璧を求めること自体が筋違いだと思う。『完璧になろうと努力する』のは立派でも、『完璧になれないことを責める』のはおかしいとすごく感じてる。
だからこそ、篠原さんが、『人間である限りは本当のことだけを言うわけじゃないのを前提にする』って話について、
『信じてもらえてないって思うと、なんか、嫌』
と感じてしまうことについても、それを責めるのは違うんじゃないかな。




