二千二百七十八 SANA編 「そういう予兆」
九月二十二日。木曜日。雨のち曇り。
『イジメはなくならない』
そんなことを言ってる人も多いみたいだけど、
『イジメがなくならないからといって何も対処しない』
のは、ただの甘えだとしか思わない。それどころか、
『自分が責められるのを嫌がっている加害者が言ってるんだろうな』
としか感じないんだ。たとえそうじゃないとしても、今度は、
『自分がイジメられていた時には対処してもらえなかったのにズルい。と考えてる元被害者が言ってるの?』
『イジメに対処する努力をしたくない学校関係者が言ってるの?』
とも感じてしまう。
どちらにしても、イジメに対処しようとする努力を、イジメを減らそうとする努力を、『やらない』という選択肢前提で語る意味が分からないんだ。
だから絵里奈も玲那も、『SANA』で職場イジメみたいなことが起こらないように努力をしようとしてくれてるだけなんだ。
イチコさんが小学校の時に男子からからかわれたのを対処してもらえたみたいに、沙奈子が千早ちゃんにきつく当たられた時に対処してもらえたみたいに、大希くんが不登校気味になった時にそれを理由にイジメられたりしなかったみたいに、やってるところはちゃんとやってるし、結果を出してるはずなんだ。
どうしてそういうところを見倣おうと考えないんだろうね。
そして、イジメというものの特徴を考えた時に、『イジメられる側』よりも『イジメる側』の方が圧倒的に数が多いはずだという印象がある。ということは、
『自分の子供がイジメられる側になる可能性よりも、イジメる側になる可能性の方が高い』
って話にならないかな?。『イジメられる心配』よりも先に『イジメる心配』をする方がいいと感じるんだ。だから僕は、沙奈子が他の子をイジメたりしてないか?というのもいつも気にしてる。
『まさか沙奈子がそんなことをするはずない』
と考えて可能性そのものに目を瞑ることはしたくないんだよ。そんな風に目を瞑っていたら、沙奈子の様子がおかしかったりしても『気のせいだ』と考えてしまうかもしれないからね。
これは、千早ちゃんや大希くんや結人くんや一真くんや琴美ちゃんや篠原さんについてもなんだ。なにかそういう予兆みたいなものを見逃したくない。『誰かを傷付けても平気』『誰かを傷付けずにいられないほどストレスを抱えてる』状態で放置するのは、大人の側の甘えでしかないと思う。
結局それが、イジメを助長するんだろうなとしか思わない。イジメられてるのを放っておかないのも大事だけど、自分の子供が誰かをイジメてるのを放っておかないというのも大事なはずなんだ。




