二千二百十六 SANA編 「万が一に備える」
七月二十二日。金曜日。晴れ。午後から夕立。
『大切な家族を守るための備え』ということなら、暴力を肯定したがる人たちの中には、それこそ、
『家族を守れるだけの力を持つ』
みたいな形で備えることを唱えてたりするのがいるよね?。僕が考えてるのも結局は、『手法』が違うだけで、『万が一に備えておく』という意味じゃ同じなんだよ。
なのにそれを『面倒だ』『大変だ』『やってられない』と考えたりするのは、つまり、
『万が一に備えることをしたくない』
って言ってるのと同じだと思うんだけどな。要するに自分の家族や家庭について、
『そこまで大切な存在じゃない』
と感じてるということ?。
だったらそれ自体が、家族や家庭以外に『救い』や『癒し』や『安らぎ』や『答』を求めてしまう原因になるんじゃないの?。『イジメはイジメられる側に原因がある』みたいなことを口にして、
『原因を作った方が悪い』
とか考えるのなら、
『今の家族や家庭には救いや癒しや安らぎや答が存在しないと感じてしまう原因を作った方が悪い』
って話にならないとおかしいよね?。
自分以外の誰かに対しては、『原因を作った方が悪い』と言いながら、自分が原因になった時にはそれを認めないとか、そんなことをしてて信頼されると思うの?。僕は思わないし信頼なんてしないよ。何より、玲緒奈を本人の承諾なくこの世に送り出したのは僕と絵里奈だ。そのことが、玲緒奈にまつわるあれこれの根本的な原因なんだってことをしっかりと認めないとおかしいよね。
ただ同時に、僕は、『原因がある』ということと『原因を作ったから悪い』というのとは直結しないとも思ってるから、自分自身は責任を負わなきゃと思いつつ、『イジメはイジメられる側に原因があるからイジメられる側が悪い』とは考えないんだ。その辺りをきちんとはっきりさせておかないと、
『やっぱり原因を作った方が悪いんじゃないか』
みたいなことを言う人が必ずいるからね。そうやって自分に都合よく解釈することも信頼に値しない行為なんだけどな。
あと、『夜間に自転車のライトを点灯しない人』『自転車を運転しながらスマホをいじってる人』『信号を守らない人』『自転車で車道を逆走してる人』とかをすごくよく見かける。しかも国産の電動アシスト自転車なら暗くなったら自動でライトが点くものが多いと思うんだけど、ライトが壊れているのかそれともわざわざ消灯してるのか、僕が乗ってるのと同じ電動アシスト自転車なのにライトを点けずに走ってる大人もいる。
自分はそうやって法律も守らないのに、自分が勝手に決めたマイルールに従わないからって子供にキレたりしてる大人なんて、
『ルールを守ってないのは自分の方だよね?』
としか思わないんだけどな。




