二千二百十二 SANA編 「歴史の教科書に」
七月十八日。月曜日。晴れ。
今日は『海の日』で休み。水曜日には沙奈子たちは終業式で、夏休みに入る。
夏休みに入っても今年も海には行かないことはもう決定してて、それを、
『新型コロナめ!』
千早ちゃんはそう口にするけど、でも精神的に追い詰められるほどまでは気にしてないそうだ。
「いや~、私らも、いずれ歴史の教科書に載るような事実を生で経験してるんだと思うと、それはそれで『うお~っ!』って思いますしね」
だって。そういうのを『不謹慎だ!』って言う人もいるかもだけど、自分の力じゃどうにもできないことについてはいっそそうやって楽しんじゃうみたいなのも、精神衛生上は必要なことなんじゃないかな。
僕たちはみんなそれができるように心掛けてるんだ。そして、それができるだけの精神的な余裕をあらかじめ持っておくように努めてる。それが持てる環境を作るように努めてる。その結果が、こうして出てるんだと思う。
僕たちはオカルトに頼らなくても、オカルトに救いを求めなくても、こうやって自分たちの間で心穏やかにいられるように努力をしているんだ。そうすると、わざわざどこの誰かも分からない赤の他人の甘言に頼らなくても済むから。そんなものは僕たちには必要ないんだよ。必要ないようにしてる。
『どこの誰かも分からない赤の他人の甘言に頼らなきゃいけない精神状態』
っていうのがもう本来は有り得ない。自分の子供や家族がそんな精神状態のままでいるのを手をこまねいて見ているだけというのが僕には理解できない。
僕にとっては沙奈子や玲緒奈や絵里奈や玲那は『守りたい相手』なんだ。『大切にしたい相手』なんだ。だからこうして一緒にいられる。その上で、千早ちゃんも大希くんも結人くんも一真くんも琴美ちゃんも、『守りたい相手』だから、『大切にしたい相手』だから、得体のしれないオカルトに救いを求めずにいられない状態で放っておきたいとは思わない。
『得体のしれないオカルトの甘言の方が魅力的に思える』
なんて状態で放っておきたいとは思わないんだよ。
どうして『得体のしれないオカルトの甘言の方が魅力的に思える』のか、よく考えてみるべきなんじゃないかな。今の僕たちの在り方よりも、どこかのカルト教団での共同生活の方が魅力的に思えるのかな。
僕たちは、お互いをただ人間として認めて敬うように心掛けているだけだよ。人間だから何もかもが自分の思い通りになってくれるわけじゃないというのをわきまえているだけだよ。それが分かってれば、一方的に押し付けたり抑え付けたりなんてしないしできない。する意味がない。
穏やかで自分が自分らしくいられれば、それ以上に何が必要なんだろうね。




