二千二百三 SANA編 「僕は嫌悪する」
七月九日。土曜日。晴れ。夕方から雨。
昨日、大変な事件があった。
詳細についてはあえて触れないけど、本当に大変な事件だった。だからこそ思うんだ。
『自分にとって都合の悪い相手だからって命を奪っていいという考えを、僕は嫌悪する』
とね。そうだ。僕は嫌悪する。玲那が、自分の父親を包丁で刺して殺そうとする事件を起こしてしまったからこそ、許せない。玲那の訴えが届かなかったことが悲しくて、やるせなくて。
玲那も言ってた。
「どうしてこう人間って、残酷なんだろ……。自分に都合が悪いからって、自分が気に入らないからって、許せないからって、命まで奪おうとするんだろ……。私は、あの時、確かにあの男を殺そうと思った。生かしておいちゃいけないと思った。だけど、そんな自分の感情を正当化したいとは、今は思わない。そう思ってしまった自分が許せない。だって、私がそう考えること自体が、あいつらが私を人間として扱わなかったことを肯定しちゃうから。
自分の都合で誰かの命まで勝手にできるんなら、心も体も好き勝手していいってことになっちゃうから。私はそれが、吐きそうなくらいに嫌だ……」
玲那の声が基になってるとは言え、スマホのアプリが彼女の打った文字を読み上げているだけの合成音声なのに、そこには間違いなく玲那の苦しい思いが込められているのが分かった。
絶対に許せない相手であっても、それを殺そうとした自分自身が彼女は許せなかったんだ。その殺意を、自分の父親に向けてしまったことはともかくとしても、
「私はあの時、誰かが邪魔をしようとしてたら、その人もきっと殺そうとしてたと思う」
彼女が自分の実の父親を刺した『母親の葬儀の場』にいたのは、玲那がどんなことをされてきたのかを知らなかった人がほとんどだったそうだ。だから、その人たちからすれば彼女の行為はそれこそ身勝手な凶行でしかなくて、もしその場に、大変な正義感と勇気を持った人がいて、彼女の前に立ち塞がろうとしてたら、玲那はその人を刺していたかもしれないんだ。そんなことになってたらそれこそ玲那は今、ここにはいなかったかもしれない。
『自分にとって都合の悪い相手』
『自分にとって気に入らない相手』
『自分にとって許せない相手』
そういう相手なら殺して構わないと考えてる人は、それを実行する際にまったく無関係な人が巻き込まれても犠牲になっても、それを、
『仕方ない犠牲』
『必要な犠牲』
と考える傾向にあると感じる。玲那が、『あの時、誰かが邪魔をしようとしてたら、その人もきっと殺そうとしてたと思う』と口にした通りにね。
そんな理屈で僕の家族が犠牲になるなんて、絶対に嫌なんだ。だからこそ、『自分にとって都合の悪い相手だからって命を奪っていいという考え』を、僕は嫌悪する。




