二百十七 玲那編 「仕事納め」
水曜日。明日で仕事も終わり。今日もやっぱり沙奈子を山仁さんのところに送り届けてから会社に向かう。星谷さんがデリバリーを頼むからということで沙奈子のお弁当は無しになった。昨日、玲那が沙奈子を迎えに行った時に、まだ山仁さんの家に千早ちゃんと一緒にいた星谷さんに言われたらしい。
「大丈夫です。お任せください」
って。
星谷さんについては、山仁さんの娘さんの友達で、大希くんの家庭教師をもう何か月もしててっていうこともあって、実績と言ったら変かもしれないけど十分に信じられる背景があると思う。秋嶋さんたちも実際にそういうのを示してくれればまだ判断もできるんだけど、玲那とは話ができても僕とは直接できないらしいからなあ。気持ちは分かるけどさ。だけど信頼してもらいたいならやっぱりね。
それに、カメラを仕掛けたっていう人も、いくら土下座して謝ってたって言っても玲那に謝るのはお門違いじゃないかな。僕と沙奈子の前で謝らないと。玲那が同じ趣味で気安い感じになれたから謝罪できたっていうことだったら、それ、謝罪になってない気がする。
だから到底、秋嶋さんたちには沙奈子のことは任せられないんだよな。まだまだ。とりあえずそんなこんなで山仁さんと星谷さんを頼るしかない状態はしばらく続きそうだ。
でも、仕事を終えて家に帰ると、沙奈子と玲那が「おかえりなさい」と迎えてくれた後で玲那が言ってきた。
「斜め上の部屋の樫牧さん、部屋を出てったんだって」
大学が休みになって部屋にいた秋嶋さんが、物音に気付いて外を見たら引っ越し業者が来てて、樫牧さんの部屋から荷物を運び出してたらしい。樫牧さん自身はまだ入院中のはずだけど、業者がいなくなった後でこのアパートの管理会社の人とかガス会社の人とか来てて、ガスの栓とか閉めて、閉栓中の札を掛けて行ってしまったから完全にいなくなったみたいだって。
そうか…、僕は樫牧さんのことはまったく知らないし嘘の通報をしたことは許せないにしても、アパートを出て行くことになったのは少し可哀想かなとも思った。でも同時に、嘘の通報のことの謝罪がない、しようともしないっていうのはさすがに不信感しかなかった。別に謝って欲しいわけじゃない。来支間さんと同じでもう関わり合いにさえなりたくないっていうのが一番なのは確かだっていうのもありつつ、その素振りすらないってねえ…。
ふと、樫牧さんはこれからもずっとそういう生き方をするつもりなのかなって思った。他人と関わり合いになるのを避けたいんなら、嘘の通報とかしちゃ駄目だろ。そうやって自分から悪い因縁を作って他人とトラブルになって『他人と関わり合いになりたくない』とか言っててもさすがにそれはおかしいだろって僕でも思う。僕は、本当に他人と関わりたくなかったから、苦情を言うことも不平不満をこぼすことさえもしなかったからね。関わりたくないんならそこまでするべきじゃないかなって思ったりはする。
樫牧さんみたいなことをしてたら、それこそ自分で自分を不幸にするだけなのになって気もする。沙奈子を見てきて、沙奈子のために僕はどうすればいいのかっていうのを考えてきて、そういう風に思うようになった。
自分は他人から嫌われてる、嫌がらせされてる、そういう風に思ってる人の中には、自分がそういう原因を作った人も中にはいる気がする。僕はもう樫牧さんとは関わりあいになるつもりもないから文句も言わないけど、普通はトラブルになってもおかしくないよな。まさに『ご近所トラブル』ってやつかな。
僕は沙奈子がそんなことに巻き込まれるのが嫌だから、二度と同じことをしないでいてくれたら文句も言わない。嘘の通報されたからってそれをやり返すつもりもないよ。
僕から見たら、『やられたらやり返す』っていうのは、むしろ傷口を広げるだけになりそうな気がして仕方ない。実際、僕はそれでトラブルを大きくしないでやり過ごしてきたし。
やり返したいなら勝手にしてくれていいけど、僕たちを巻き込まないようにしてもらいたいかな。
木曜日。今日は玲那と入れ替わりで絵里奈が帰ってくる。そして年内の仕事は終わりだ。さすがに今日は残業はないことになってる。システムのメンテナンスに入るからだ。そういうのは僕たちにはさっぱり分からないからお任せするしかない。
沙奈子を山仁さんのところまで送って会社に向かう。もう四日目だから何だか普通のことになってきた気がする。
「いってらっしゃい」
って、大希くんと一緒に僕を見送ってくれた沙奈子の様子も、すっかり慣れた感じだった。こうして見ると、大希くんとも姉弟みたいにも思える。沙奈子のほうが背が高いし誕生日が先だから、姉弟ってことでね。
ほんの数か月前までは全く見ず知らずの他人同士だった僕と山仁さんたちがこうなったことも、なんだか不思議だった。これも沙奈子が引き合わせてくれたんだなあ。
そういうことを考えながらバスに揺られて会社に行き、仕事をこなし、昼休憩に絵里奈と玲那と会話を交わし、午後の仕事もこなして、今日は定時前に仕事は終えて、自分の机とかの整理を行って終了になった。
「良いお年を」なんて一応は挨拶も交わしたけど、正直、本当にただの社交辞令だなって感じだった。英田さんとは、結局、まともに言葉を交わすこともなかった。周りも気を遣ってなのか腫れ物に触る感じなのか、やけに距離を感じた。僕が気にすることじゃないんだけどさ。
ただ、この後に起こることを考えたら、せめて挨拶くらいしておくべきだったかもしれない。そんなことも、後になって思うことなんだよな。まさかこれが最後になるなんて、思ってなかったから…。
だけどそれも、僕と英田さんが『他人』だったからなんだと思う。沙奈子が相手ならいつどんなことがあるか分からないって思っていつだってちゃんと見ていたいって思えるのに、英田さんのことは『休みが開けたらまた会えるだろ』って思ってしまってたんだ。無意識に、そこまで違ってしまってた。
他人のことまであんまり考えてたら肝心の家族のことが疎かになってしまうかもしれないからそれはむしろ当然なのかもしれない。ただやっぱり、他人とは言っても全く見ず知らずの人じゃないからどうしてもある程度は気になってしまうんだ。
何もできないけど、だからって不幸になって欲しいと思ったりはしない。出来れば幸せになって欲しいと思う。けれど、大きな不幸は次の不幸を招くこともあるんだっていうのも、僕は思い知らされることになった。
人生って本当に、思い通りにならないものだよな…。




