二百六 玲那編 「見守り」
金曜日の朝。絵里奈の朝食の匂いで目が覚める。用意を手伝うと、不意に目が合ってまたキスをした。これももうすっかり当たり前になった気がする。なのに、ドキドキする感じはむしろ強くなってる気もする。絵里奈の方も、僕を見る目が熱っぽいって感じだった。
ほんとに不思議だな。結婚してからこんなに気持ちになるとか。まあ、普通とか何とかは僕たちにはあんまり関係ないかも知れないけど。
沙奈子と玲那が起きてからみんなで朝食を食べて、それから掃除と洗濯とって進んだ。
その後、午前の勉強として冬休みの宿題をした。プリントがけっこう多かった。プリント以外の宿題が、歯磨きのチェックシートと課題図書を読むっていうだけだから全体としては少ないんだろうけど、密度としたら夏休みの宿題より多い気がする。
それでも沙奈子は、どんどんプリントを終わらせていった。元々本が好きでよく読むからか、国語の文章を読み解く問題も割とスムーズにやれてた気がする。
とその時、宿題をやる沙奈子の様子を見てた玲那がいきなり声を上げた。
「あ、秋嶋さんたちと集まるんだった。ごめん、ちょっと行ってくる」
って言って、するっと部屋を出て行ってしまった。でも、すぐ外で「おはようございま~す」って声が聞こえて、隣のドアが開いて閉まる気配が伝わってきた。なんだかなあ…。
僕と絵里奈は顔を見合わせてちょっと苦笑いをしてしまった。沙奈子もきょとんとした顔をしてた。その後は気を取り直して宿題を一気に進めた。一時間半くらいかけたけど、三分の一ほど終わらせることができた。
ただ、プリントを机の上に置こうと手を伸ばした時、沙奈子の左腕に残る傷痕が見えてしまって、胸がズキンと痛む感じがした。こんな傷痕くらい気にしない人を見付けてもらえたらって思った。
昼食の用意を絵里奈と沙奈子が始めると、何やら隣の部屋でどっと笑いが起こったのが聞こえてきた。一人二人の声じゃない。少なくとも四人とか五人とかいそうだ。女性の笑い声も混じってる。玲那の声かな。何をやってるんだか。
今日の昼食は親子丼だった。絵里奈がスマホを取り出して、どこかに掛け始めた。
「あ、玲那?。お昼できたよ」
なるほど、玲那を呼び出してたのか。
「は~い、今行く~!」
と、壁の向こうから玲那の声がしてきた。分かってたけどこの部屋の壁、薄いんだなあ。これで今まで生活音がほとんど聞こえなかったんだから、よっぽどみんな大人しくしてたんだなって改めて実感した。
帰ってきた玲那は、よほど楽しかったのかすごく上機嫌な感じだった。
「いや~、充実した時間だったあ。まさかここまでアニメの趣味が合う人がこんなに近くにいるなんて思わなかったな~」
はあ、そうですか。それは良かったね。
「あ、お昼からも行くからよろしくね。買い物行くんだったらまた声かけて。一緒に行くから」
だって。
僕はまた絵里奈と顔を合わせて苦笑いになってしまった。でも、玲那がこんなに楽しそうにしてるのは、僕も素直に嬉しいって思える。この子もいろいろ抱えてるはずだもんな。そういうのを忘れて楽しめるっていうのはいいことなんじゃないかな。
昼食を終えると、言ってた通りに玲那がまた部屋を出て行った。残された僕たちは沙奈子の午後の勉強として宿題の続きをやった。その間にも、微かに隣から話し声や笑い声が聞こえてくる。
「おねえちゃん笑ってるね」
不意に沙奈子がそう言って僕の顔を見た。でもその顔はどこか嬉しそうだった。そうか、沙奈子にとっても玲那が楽しそうにしてるのは嬉しいことなんだな。
「そうだね」
と僕は応えてた。ふと見ると絵里奈が目を潤ませながら沙奈子を見てた。玲那が楽しそうにしてるのを喜んでくれるこの子の姿にぐっときてしまったんだと思った。
一時間ほどかけて一気に宿題を進めると、今日だけで三分の二ほど終わらせることができてしまった。この調子だと明日には終わってしまいそうだ。本当にすごいな沙奈子は。
三人で、洗濯物のうち乾いてるものを取り込んで、絵里奈はワイシャツとかブラウスとかズボンとかにアイロンを掛け始めた。沙奈子にもアイロンを持たせて、少しだけ手伝ってもらったりしてた。それさえ沙奈子にとっては遊びみたいなものらしくて、楽しそうだった。そんな沙奈子と絵里奈の姿が本当に娘と母親に見えた。
僕も手伝って洗濯物を片付けて、そろそろ買い物に行こうかってことになった。また絵里奈がスマホを出してきて「玲那、買い物行くけどどうする?」って聞いてた。
「行く~、ちょっと待って~!」
また壁越しに玲那の声が聞こえてきた。バタバタと外に出る気配がしてうちのドアの鍵が開けられて玲那が「ただいま~っ」って入ってきた。
「おかえり」って僕と沙奈子と絵里奈の三人で迎えて、それから四人で買い物に出た。
今日は金曜日だからそんなに買い物をする予定はないけど、玲那が自分の部屋から持ってきた折り畳みのカートを念のために持っていくことにした。
「イベントとかの時の必須アイテムですから!」
だって。何の自慢なんだろう。
四人で買い物を済まして家に帰る。その帰り道、絵里奈と手を繋いで前を歩く沙奈子を見ながら、玲那が僕に話しかけてきた。
「やっぱり秋嶋さんたちって、いい人たちですよ。沙奈子ちゃんが一人で留守番してても大丈夫だったのは、秋嶋さんたちが守ってくれてたからっていうのもあるんじゃないかな」
玲那にそう言われても、秋嶋さんたちのことをよく知らない僕には苦笑いしかできなかった。ただ確かに、そういうのも無いわけじゃないかもとは僕も思った。僕の知らないところでも誰かが沙奈子を、沙奈子だけじゃなくて他の子たちのことも守ってくれてるんじゃないかっていうのは感じた。
学校のPTAや近所の高齢者の人たちが中心になって結成されてる『見守り隊』にしたってそうだ。毎日、通学路の途中に立って見守ってくれてるっていうことだけど、僕は見守り隊の人たちの名前も顔もほとんど知らない。それなのにみんなが沙奈子たちのことも守ってくれてる。そうやって守られてるんだっていうのを僕も実感できた。
秋嶋さんたちのことについては今はまだピンとこないけど、見守ってくれてたっていうのが本当なら、感謝したいと思う。ただ、やっぱりカメラを仕掛けてたり、絵里奈や玲那のことで妬んで嘘の通報したりする人がいたっていう点を考えると、すんなり全面的に信用するっていうのは無理だと感じた。正直、まだ様子見かなあ。
でも同時に、沙奈子のことを見守りたいって思ってくれてるっていうその気持ちについては、本当のことであってほしいとも思う。そしてそれは、沙奈子がこんなにいい子だからだっていうのもあるんじゃないかな。他人に迷惑をかけるような子だったら、そんな風に思ってもらえなかったかも知れないし。
他人を気遣うことができると、こういう風に自分たちに返ってくるんだっていうのも感じたのだった。




