二 沙奈子編 「距離」
個人懇談を終えた僕が部屋に戻ると、沙奈子はテレビを視ていた。視ていると言っても、しっかりと視ているというよりは、テレビの画面をぼんやりと眺めてるだけかも知れない。
「ただいま」
一応そう声を掛けると、こちらを向いて「おかえりなさい」と返事は返ってくる。最初の頃に比べると、返事をするようになっただけマシだとは思う。でもそれはまだまだよそよそしくて、全然打ち解けてないということは間違いないと思った。
僕は元々対人関係が苦手で、ましてや子供なんてどう打ち解けたらいいのかまるで分らなかった。だからせっかく仕事を休んだんだから、ラーメンでも一緒に食べて少しでも打ち解けられればと考えたのだった。
「宿題、終わったか?」
いつも僕が家に帰った時には宿題は終わらせてたから学校から帰ってすぐにやってるんだと思って聞いてみた。そうしたら彼女が頷いたから、
「じゃあ、ラーメン食べに行こうか?」
と尋ねてみた。すると彼女は驚いたようにこっちを見て、一瞬何か困ったような顔をした後、また小さく頷いた。
沙奈子が一瞬見せた困ったような表情が少し気になったけど、そんなに嫌がってるようにも見えなかったから、とにかく彼女を連れて近所のラーメン屋に行った。
席に着いて取り敢えずラーメンを二つ頼んで、全く会話もなく食べ始めた。
僕は当然普通に食べるけど、沙奈子は麺を少しづつ箸で口に押し入れて、噛むというより口の中でモニュモニュとほぐしてるみたいな変な食べ方をしていた。さすがに気になったけど、別に汚い食べ方してるわけじゃないから特に何も言わなかった。
だけど、時々、ビクッと顔をしかめて何かを我慢してる感じがしてやっぱりおかしいと思った。何となくピンとくるものがあったから、
「もしかして、歯が痛い?」
と聞いてみた。なのに沙奈子は首を横に振った。でも麺を口に入れてモニュモニュしてる時にまたビクッと顔をしかめた。歯じゃないとしてもなんともないとはとても思えなかった。
「やっぱり歯が痛いんじゃないのか?」
もう一度聞いてみるけど、さっきよりも強く首を横に振る。伸ばし放題の髪の毛がバサバサと彼女の顔を叩くくらいの振り方だった。
歯が痛いんじゃないにしても明らかにおかしいと思った。だから、
「ちょっと口を開けてみて」
と言ったら彼女は、両手の平を僕の方に向けて、何かから守ろうとするかのようにそれを自分の顔の前でクロスさせて、
「ごめんなさい、ごめんなさい」
と必死に謝りだした。その異様な様子に、店主や他の客が注目するのが分かった。まるで僕が彼女を虐めてるみたいに見えてると思って僕は、
「大丈夫大丈夫、怒ってるんじゃないから、口を開けて見せてって言ってるだけだよ。ほんとに怒らないから」
と慌てて取り繕った。それでも周りの人達が怪訝そうな感じで見てるのを感じながら、怯えたみたいな顔でおずおずと僕に向かって口を開けたのを覗き込んでみた。そうしたら、素人目にも下の奥歯に黒い大きな穴が開いてるのが分かった。しかも両方とも。
虫歯だ!。
さすがに詳しい知識のない僕でも一目でそう思った、それも見るからに痛そうな虫歯だった。こんなのじゃ上手く食べられなくて当然だよな。僕は思わずスマホを出して、かかりつけの歯医者に電話を掛けていた。
受付の人が出たから、予約はないけど小学生の子を今から診察をお願いできますかと聞いたら、少し待っていただくことになるかも知れませんけど今から来てくださいと言われたので、ラーメン屋を出て早速歯医者に向かった。
すると、歯医者に着いた途端、予約のキャンセルがあったと言うのですぐに診てもらえることになった。そして彼女の歯を見た医者がすぐに、
「どうしてこんなになるまで放っておいたんですか?」
と少し強い口調で言われたから、彼女の面倒を見ることになった経緯を話した。
「それにしてもこれはだいぶ痛かったでしょう。普通の子供だったら泣き喚いてますよ。我慢強い子ですね。まず麻酔を打ってから治療を始めます」
麻酔用の注射を用意しながら医者が言う。それを見て沙奈子は少し怯えたような顔をしたけど、それでも嫌がるどころか声を上げることさえなかった。それを見てさすがに僕も、どうしてそこまで従順なのかと逆に怖くなった。
麻酔が効いたのを確認してから、医者はドリルで彼女の歯を削り始めた。でもすぐに、
「これは駄目ですね。もう神経が出てきてしまった。神経も抜くことになります。かなり時間がかかりますから、承知しておいてください」
と言われて、神経を抜く手術が始まった。
結局この日は神経を抜いて、その傷が落ち着くまで仮の詰め物をした状態で、また後日続きをすることになった。
その後の会計の時、麻酔とかもしたから結構取られるかと思ったら、小学生は行政から支援があるので保険適応の治療は無料だと言われた。知らなかった。
それで家に帰る途中、僕は兄のことを思い出していた。医者が言うには、虫歯は下の奥歯だけじゃなくて、5本もあるとのことだった。しかもここまでなるには僕のところに来る以前から痛みがあったはずだと言われて、小学生は治療費が掛からないのに、あいつは沙奈子を歯医者にも連れて行かなかったのかと思った。それを考えた時、僕は初めて兄に対して怒りがこみあげてくるのを感じた。
それまでは困ったとかは思ってたけど、はっきりと怒ってるって感じじゃなかった。だけどさすがに今回のことは腹が立った。金がかからないのに、いや金がかからないことも知らなかったのかもしれないけど、虫歯が痛くてもそれを言わせないようにしてたんだと思った。
これは躾ができてるとか我慢強いとかじゃないと、僕でも感じる。歯が痛いんじゃないかと僕が聞いたときのあの沙奈子の様子を見たら、何かよっぽどのことをして痛いとかそういうことを言わせないようにしてたのかも知れない気がした。
そしてこの時になってようやく、僕は沙奈子に対して少しだけど同情的な気持ちになったのだった。