百九十六 玲那編 「御対面」
バス停を降りて会社に行くまでの間に、僕は学校に電話をした。すると、教頭先生が出て、「はい、話は伺いました」と言われた。というのも、塚崎さんが朝一番に学校に来て、沙奈子の怪我のこととかどうしてそうなったのかというのを説明してくれたっていうことだった。
僕は驚いた。まさかそこまでしてくれるなんてと思った。だけど、考えてみたら塚崎さんは、沙奈子が初めて今の学校に行った日にも、僕の代わりに付き添って事情を説明してくれるほどの人だった。だから塚崎さんにとってはこれくらい当たり前のことなのかもしれない。
塚崎さんが事情を説明してくれたおかげで、学校でもし沙奈子の様子がおかしいとかいうことがあったらすぐに連絡してもらえることになった。自転車通勤で僕たちより先に着いてた玲那とも門のところで合流してそのことを話したら、少し安心したみたいだった。でも、絵里奈と玲那にとっては、まだどうしても不安があるみたいだった。絵里奈は言った。
「しばらく、沙奈子ちゃんのところから通うようにします。とりあえず、今週いっぱいは様子を見たいですから。それに、沙奈子ちゃんを病院に連れて行かないといけないですから」
そうだった。包帯を替えたり傷の経過を見るために、週に二回、火曜日と金曜日に診察を受けるように言われてたのだった。そんな事情もあって、絵里奈と玲那がそれでいいのなら、僕が反対する理由は特になかった。こんな風に完全に一緒の生活が始まるなんて、皮肉なもんだと思った。
自分のオフィスに行っていつものように席に着いたけど、正直、隣の英田さんのことを考える余裕はなかった。英田さんよりはマシかもしれなくても、僕たちにとってはすごく大変なことだったから、仕事をきちんとやったら後は自分たちのことを考えるしかできなかった。
昼休み。玲那が言った。
「私もうちから通いたいし、兵長連れてきていい?」
兵長…。ああ、あの、玲那が僕に似てるって思ってたっていうアニメのキャラクターの人形か。
「いいよ」
僕は二つ返事でOKした。さらに人形が増えることになっても、別に構わない。みんなで一緒にいられるならね。それに、人形のことを気にする余裕が出てきたっていうのは、きっといいことだと思う。どうやら玲那はもう大丈夫なんだろうなって思えた。
ただ同時に、やっぱり、どうしてあんな風になったのかっていうのが、頭の隅に引っかかってた。沙奈子があんなことになったのがショックっていうだけじゃないのは間違いない。何しろ、来支間さんが来た時にはもうそういう感じになってたんだから。
来支間さんに何か関係があるってことなんだろうか?。でも別に顔見知りとかそういう感じじゃなかったけどな。それでも、来支間さんを見た時からおかしかった気はする。来支間さんが誰かに似てたって感じかな…?。
いや、やめとこう。そういう詮索はしないって決めてたじゃないか。言えることなら玲那が自分から話してくれるはずだ。それを待つって決めたんだからそうしなくちゃ。だから僕は、頭によぎったそれを無視した。
ふと、学校から連絡が入ってないかと思ってスマホを確認したけど、着信はなかった。どうやら今のところは大丈夫みたいだ。大希くんと千早ちゃんが沙奈子のことを守ってくれてるのかもしれない。
午後からも仕事に集中するようにして、残業も早めに終わらせた。8時前には会社を出られて、家に帰る。玄関を開けると、そこには三人の姿があった。それを見た途端、僕はぐっと込み上げてくるものがあるのを感じた。ああ良かった、みんな無事だった。って思った。
「ただいま」
僕がそう言うと、
「おかえりなさい」
って三人がそう応えてくれた。沙奈子も、表情はまだ硬いけど、でもちゃんと応えてくれるのが嬉しかった。
何気なく机の上に目を向けると、また知らない人形が増えてた。何だかこっちをすごく睨んでる、怖い顔をした男の人の人形だった。もしかして、これが『兵長』ってことか…?。
僕の視線に気付いたらしい玲那が立ち上がって言った。
「初めまして、私のところの兵長です。ちょっと顔は怖いかもだけど、やっぱりお父さんに似てるでしょ?」
…え、と…、うん、ごめん…、ちょっと分からない…。正直な感想としては、『どこが?』っていうのがやっぱりある。怖いだけじゃなくて、すごく意志の強そうな目をした人形だと思った。一度決めたら決してそれを曲げようとしない厳しさが伝わってくる感じだった。僕がこの人に似てるって言ったら、そりゃファンの人は怒るよって思ってしまった。
ああでも、玲那がそう思ってるっていうことなら、それでいいや。僕がとやかく言うことじゃない。嬉しそうに兵長を僕に紹介してくれる玲那が笑ってくれてれば、何も言うことはないよな。
部屋を見回すと、たぶん、絵里奈と玲那の私物が入ってるんだろうなっていうカバンがまた増えてた。一緒にいられるのはいいけど、これはちょっと大変かなとも思ったりもした。
だけどそれでいいか。何しろ僕と絵里奈はもう正式に夫婦なんだし。
そう思って絵里奈を見ると、目が合って胸がまたドキンってなった。顔が熱くなる感じがあった。絵里奈も顔が赤くなってる気がした。そんな僕たちを見て、玲那が『むーっ!』って感じで唇を尖らしてた。ヤキモチを妬いてるんだと思った。ただ、今の沙奈子の手前、茶化したりするのは我慢してくれてるのが分かった。ありがとう、玲那。
あ、でもそうなると…。
不意に僕の頭に浮かんできたことがあった。絵里奈と正式に夫婦になったことで、『児童手当』はともかく、『児童扶養手当』の方は対象からは外れるはずだ。何しろ児童扶養手当は、片親世帯が対象だから、絵里奈と結婚したことで両親が揃った訳で、早く停止の手続きに行かないとな。そのままにしてて不正受給とか言われても困る。今月の半ばに沙奈子の学校で個人懇談があるからそのための有給も取ったし、ついでに役所に行ってこよう。
住民票については、さすがにここでずっと一緒に住むわけにいかないし、新しい家が見付かってからでいいか。
ただ、冷静になってくると、絵里奈のご両親とかに挨拶しなくちゃいけないのかなとかも思った。一度も言葉を交わしたこともないのに先に結婚してしまって何を言われるかと思うと怖かったけれど、やっぱりそれも必要なことだよな。
でも、それについては結論から言うと、絵里奈に止められた。絵里奈と彼女のご両親とは、本当はもうすでに事実上の絶縁状態にあったらしいのが、後から分かったのだった。その代わりに、お父さん役になってくれてたという彼女の叔父さんのところには、いずれ落ち着いたら挨拶に行こうってことになったのだった。




