千九百五十七 玲緒奈編 「よっぽど説明が付くと思う」
十一月五日。金曜日。晴れ。
『赤ん坊の内から躾けないとまともな人間にならない』
という考えを客観的に捉えなおしてみるということができないみたいなのを、今では、『確証バイアス』っていうらしいね。だけどそれを信じてきた親に育てられてきた人たちの振る舞いを見ていてどうして正しいと思えるのかが分からない。
『決められたルールを、自分勝手な詭弁で解釈を捻じ曲げて無視する』
なんてのが『まともな人間』だと言うのなら、この世には逆に『まともじゃない人間』なんてほとんど存在しないと思うけどな。
自分勝手な振る舞いでたくさんの人に迷惑を掛けてるような人すら、『決められたルールを、自分勝手な詭弁で解釈を捻じ曲げて無視する』ことを実行してるだけだからね。
だけど僕は、そうやって『決められたルールを、自分勝手な詭弁で解釈を捻じ曲げて無視する』ことを正当化する人間でいたいとは思わない。常に百パーセント正しくて清廉潔癖な人間でいられるとは思わないけど、だからって身勝手な人間でいていいとも思わない。そんな親の姿を沙奈子や玲緒奈の見せたくはない。
そういう僕の在り方を真似てくれるだけで、『他所様を傷付けて平気でいられるような人間にはならない』のなら、万々歳だ。
親が『気に入らないことがあったからって自分の感情そのままに怒鳴ったり叩いたりしない』という振る舞いをしてて赤ん坊がそれを真似たら、それだけで『イジメを正当化しない人』になれるんじゃないの?。『他所の子をイジメるような子供』にならずに済むんじゃないの?。逆に、親が『気に入らないことがあったら自分の感情ばかりを優先して怒鳴ったり叩いたりする』という姿を見せてて赤ん坊がそれを真似るようになったら、『気に入らない』というだけの理由で他の誰かを攻撃するような人になるとは思わないの?。
赤ん坊が言葉を覚えるプロセスを考えたら、『人間としての在り方』をどうやって身に付けていくのかを想像できないの?。
その中で、『気に入らないことがあれば怒鳴って叩いていい』という親の姿を見せていて子供がそれを真似してしまわないと、どうして思えるの?。親が日本語を話しているのに子供がいきなり英語をぺらぺらと話し始めると本気で思うの?。
『子供がどんな人間に育つかは、親の振る舞いを見ることでおおよそ決まる』
って考えた方がよっぽど説明が付くと思うんだけどな。子供が小学校の高学年くらいになっても信号を守らないなんて、親や大人の姿を真似てたからだとしか思わないんだけどな。
しかも、
『信号を律儀に守ってる奴なんか、空気を読めない馬鹿』
みたいなことを親や大人が言っててそれで子供が信号を守るようになると、なんで思えるの?。




