百九十三 玲那編 「いっぱい、ぎゅーってしてもらってね」
だけど様子がおかしいのは沙奈子だけじゃなかった。玲那も昨日からどこか上の空って言うか、思考停止状態って感じでぼんやりしてることが何度もあった。その度に絵里奈が抱き締めて、
「大丈夫、大丈夫だよ。私はここにいるよ」
って声を掛けてた。たぶんこれは、玲那が抱えてるものが影響してるんだと思った。そして絵里奈は、それをどうすればいいのか知ってるんだと思った。
だから僕も、沙奈子に声を掛けた。
「大丈夫、みんな一緒だよ」
って。
あまりそんな気分じゃなかったけど、でもだからこそってことでみんなで掃除をして洗濯をしてっていつも通りにやるように心掛けた。すると沙奈子も自分で床用のワイパーを持って掃除を始めた。右手だけだからうまくはできないけど、手伝ってくれるだけで十分だった。洗濯物を干すのも手伝ってくれたし、ちゃんと午前の勉強もした。あと、今日も大希くんたちが来てホットケーキを作ることになってた。
さすがに今回は断った方がいいかなとも思いつつ、やっぱりそれも敢えていつも通りにすることにした。そしたら、沙奈子の姿を見た大希くんも、千早ちゃんも、星谷さんもショックを受けたみたいに驚いた顔をした。
「沙奈ちゃん大丈夫?、痛くない?」
千早ちゃんがすごく心配そうな顔をして沙奈子にそう聞いた。沙奈子は黙って頷いた。痛み止めを飲んでるから本当に痛くないのかもしれないけど、彼女は痛みや苦しみを我慢してしまう子だから、本当のところはどうなのか分からなかった。
それでもまた三人でホットケーキ作りを始めたとき、星谷さんが囁くように聞いてきた。
「何があったのか、詳しいことをお聞きしてもいいですか?」
高校生の女の子、しかもいくら親しくなったと言っても家族って言うほどじゃない彼女にどこまで話していいのか少し迷ったけど、僕たちのことをあの強い眼差しで真っ直ぐに見詰めるその姿に、嘘を吐いても無駄だっていう気がしてしまって、つい正直に話してしまったのだった。
それに対して星谷さんは、
「それは、十分に損害賠償請求ができる事案ですね。もし、山下さんがそういうことをお考えでしたら、私、いい弁護士を紹介します」
損害賠償請求…?。弁護士を紹介する…?。
そういう言葉が当たり前みたいに出てくる彼女に、僕たちは逆に戸惑ってしまっていた。僕としてはむしろもう早く忘れたいと思ってた。関わり合いになりたくなかった。裁判とか起こそうなんて全然考えてもなかった。だから星谷さんがそう言ってくれるのは嬉しかったけど、丁寧にお断りさせてもらった。
そんな僕に、星谷さんは言った。
「分かりました。山下さんがそうおっしゃるのでしたら、それでいいと思います。でも今後、もし、私の力が必要になったらいつでもおっしゃってください。私、ヒロ坊くんの大切な友達を苦しめるような人は許せません…!」
その時の星谷さんの目には、確かに怒りのようなものが込められてるのが感じられた気がした。そうか、星谷さんにとって大切な大希くんの友達として、沙奈子のことを想ってくれてるんだな。あくまで大希くんのためにっていうことでも、沙奈子のことをそんな風に思ってもらえてるのは素直にありがたいと思った。
ところで、沙奈子はいつも通り現場監督っぽく見てる感じだったから怪我をしてても問題なかったけど、いつも通りの様子では決してなかった。つまらなそうってわけじゃないし辛いわけでもない感じはしつつも、やっぱり笑顔はなかった。どこか表情が強張ってるようにも見えた。
すると大希くんが、
「山下さん。しんどかったらお父さんに、いっぱい、ぎゅーってしてもらってね。僕もしんどい時はお父さんにぎゅーってしてもらうんだ。そしたら平気になるんだよ」
って沙奈子に声を掛けてくれた。何て優しい子なんだと思った。しかも千早ちゃんも、
「そうだよ。私もピカお姉ちゃんにぎゅーってしてもらうの。そしたら元気になれるの。沙奈ちゃんも早く元気になってね」
だって…。
沙奈子を励まそうとしてくれる二人の気持ちが嬉しくて、僕は胸がいっぱいになった。絵里奈も泣いてた。玲那はまだどこかぼうっとした感じだったけど…。
沙奈子は、自分に話しかけてくれる二人に向かって、黙って頷いた。本当だったら笑顔を向けてくれるところのはずなのに、今はまだそれができないんだって気がした。そんな沙奈子に、千早ちゃんがいい子いい子って感じで頭を撫でてくれてた。
その様子を見て、僕は、明日からもやっぱり学校には通わせた方がいいかもしれないと思った。一週間くらい休ませようかとも思ったけど、僕たちが仕事を休めない以上、家に一人でいるよりはこの子たちのいる学校の方が気持ちも落ち着くんじゃないかって気がした。
念の為、水谷先生には大まかな事情を話しておこうと思う。その上で、もし、沙奈子の様子がおかしかったりしたら連絡をしてもらうようにしよう。うん、そうしよう。
みんなでホットケーキを食べて、星谷さんが持ってきてくれたケーキも食べて、お腹が膨らんだところで大希くんたちは帰っていった。
すると、それと入れ替わるように訪ねてきた人がいた。塚崎さんだった。
「この度は、本当に申し訳ございませんでした」
部屋に上がるなり、塚崎さんは両手をついて深く深く頭を下げてそう言ってくれた。それが逆に申し訳なくて、慌ててしまった。
「塚崎さんのせいじゃありません。それどころか塚崎さんのおかげでこれくらいで済んだって思ってます。こちらこそ本当にありがとうございました」
そう言って僕も手をついて頭を下げた。
それから、塚崎さんが静かに話をしてくれた。
「今回、児童相談所に入った通報の件ですが、実は今朝、また別の電話がかかってきたんです。その内容は、先の通報は間違いだっていうものでした。自分は近くで様子をうかがってたけど、虐待とかそんなのなかったっていうものでした」
その言葉を聞いた途端、僕たちは軽く混乱した。近くで様子をうかがってた?。誰が?。というのも気になったけど、虐待なんかなかったって言ってくれる人がいたっていうことに驚いた。ちゃんとそういう風に思ってくれてる人が他にもいたんだって思った。
塚崎さんはさらに続けた。
「そういう電話が入るくらいですから、ちゃんと裏を取ろうとすれば最初の通報が疑わしいものだっていうのはすぐに分かったと思います。今回、私たちはそれを怠ってしまったんです。悪戯や嫌がらせのために行われる虚偽の通報というのはこれまでにも何度かあったことですから、そういう可能性もきちんと検証しなければいけなかったんです。本当に申し訳ありません。来支間には後日改めて謝罪にこさせますので」
そうだったのか…。でも、来支間さんのことは、正直、どうでもいいっていう気がしてた。それよりは顔も見たくないっていう気持ちの方が強かった。だからもう、謝罪なんか聞きたくないっていうのが、この時の僕の本音なのだった。




