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僕に突然扶養家族ができた訳  作者: 太凡洋人
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百九十二 玲那編 「婚姻届け」

鬼気迫る顔っていうのは、こういうのを言うのかも知れないと思った。口調は静かだし動きも控えめだけど、それだけに僕を見る絵里奈の表情が怖いとさえ思えた。


でも、僕も異論はなかった。『親族じゃない』と言われた時、やっぱり社会的にはこんな紙切れでも意味を持つんだっていうのを思い知らされた気がした。以前から考えてはいたけど、玲那についても養子縁組をしてちゃんと法律上も家族になることを、僕も決心させられていた。その為にもまず、出来ることからしようと思った。婚姻届けならいつだって受け付けてもらえるからね。


ただ、僕と絵里奈の署名はいいけど、証人の欄にはもう一人必要な筈だった。それをどうしようかと思った時、真っ先に頭に浮かんだのが山仁やまひとさんだった。急にこんなことをお願いするなんて失礼なことだっていうのは分かってる。だけどこの時の僕たちは、相当、精神的に追い込まれてたんだと思う。とにかく今すぐ、沙奈子のためにちゃんと家族にならなきゃって、それだけを考えてた。


山仁さんに電話を掛けて、婚姻届けの証人になって欲しいということを話すと、二つ返事でOKしてくれた。「おめでとうございます」とまで言ってくれた。こうなった経緯については話してなかったからそう言ってくれたんだと思うけど、今すぐ来てもらって構わないということだったから、僕と絵里奈は挨拶も兼ねて二人で行くことにした。沙奈子は、玲那に任せて。


雨はまだ降り続いてた。その中を傘を差して山仁さんの家を目指した。地図アプリで確かめながらでも分かりにくい迷路みたいな路地の中に、山仁さんの家はあった。決して大きくない家の玄関先に、前かごの部分がチャイルドシートになった自転車と、軽快車と、子供用の自転車が並んでた。


チャイムを押すと、「はーい」と男の子の声で返事があった。大希ひろきくんの声だった。玄関が開けられて大希くんが僕たちの顔を見て、「いらっしゃい!」って笑顔で迎えてくれた。その後ろから、山仁さんが姿を現した。


「この度は、おめでとうございます」


改めてそう頭を下げてもらって、僕たちは恐縮しきりだった。「どうぞ上がってください」と言われたけど、「沙奈子を待たせてますから」と僕たちが応えると、山仁さんは頷いて、すぐに婚姻届けの証人の欄に署名捺印してくれた。


「これで後は役所にもっていくだけですね」


山仁さんは微笑みながらそう言ってくれた。本当はちゃんと上がってきちんと挨拶するべきだったんだと思う。でもこの時の僕たちにはそれに気付く余裕がなかったんだって後になって思った。山仁さんもそれを察してくれてたらしかった。僕たちがひどく焦っていることに。


結局、二人して深々と頭を下げるだけで挨拶もそこそこに婚姻届けを持って、僕たちは役所へと早足に向かった。役所の時間外受付でそれを受け付けてもらって、事務的に処理されて、こうして僕たちは正式に夫婦になったのだった。絵里奈は、山田絵里奈から、山下絵里奈になった。


僕はその辺りのこだわりがなかったから僕の方が名字を変えてもよかったんだけど、絵里奈は、僕と沙奈子の苗字が変わってしまうことを避けたかったらしかった。


「私たち、結婚しちゃったんですね…」


降りしきる雨の中、何だかちょっと気が抜けたみたいにゆっくり歩きながら絵里奈がポツリとそう言った。


「そうだね…」


僕も何となく漏らすみたいにそう応えた。結婚したっていう感慨みたいなのは全然なかった。こんなもんなんだっていう感じかもしれない。だけどそれでも、もう、これで『親族じゃない』とか言わせない。後は、玲那だな。養子縁組なんてどうすればいいのかさっぱりだけど、それも何とか早めにしよう。そう決意しながら僕たちは歩いた。


家に帰ると、沙奈子と玲那がすがるみたいな目で僕たちを見た。その姿は、本当に心細くなりながら両親の帰りを待つ幼い姉妹って感じに見えた。絵里奈は沙奈子を、僕は玲那を、ぎゅっと抱き締めていた。すると玲那がポロポロと涙をこぼし始めた。辛かったんだなって思った。僕も込み上げてくるものがあって、涙が溢れてしまった。


それから僕たちは、四人で抱き合って四人で泣いた。何も考えられずにただ泣いた。そうして四人で固まるみたいにして眠ったのだった。




翌朝、日曜日。寝てる間も泣いてしまってたのか、絵里奈が泣きはらした顔で朝食の用意をしてた。でも僕の顔を見た絵里奈が困ったような笑顔になって、「ひどい顔…」って言った。そんな絵里奈と見詰め合って、僕たちはキスを交わした。夫婦になって初めてのキスだった。


あれほど強く降っていた雨も今日はすっかり上がって、空も明るくなっていた。そんな中で改めて沙奈子の姿を見ると、僕はまた胸が苦しくなってきた。包帯でぐるぐる巻きになった左腕を吊ってる彼女の姿を見るのが辛かった。どうしてこの子がこんな目に遭わなきゃいけないんだろうと思った。


それは、児童相談所に通報があったからだって言ってたな。でも、誰がそんな通報したんだ?。僕が沙奈子に性的虐待を加えてるなんて、僕と絵里奈が沙奈子の前で性行為してるなんて嘘、いったい誰が…?。


…いや、止めておこう。そんな犯人捜しをしたってきっと余計に面倒なことになるだけだ。塚崎さんのおかげで誤解は解けたんだ。もうそれで十分だと僕は思った。


ただ、沙奈子は今日、起きてから一度も笑わなかった。いや、たぶん、昨日、来支間きしまさんが来てからずっと笑ってない。でもその表情自体は少し違ってる気もする。昨日は不安そうにも見えたのが、今日は、泣いてるとか辛そうとかそういうのでもなく、ただ無表情に淡々とした様子だった。まるで、この部屋に来たばかりの頃のように…。


だけどそれも、僕たちが一緒にいられればまたきっと笑えるようになるはずだ。今はまだショックが強くて気持ちの整理がついてないんだと思う。


それともう一つ、沙奈子のことで気が付いたことがあった。沙奈子は昨夜、おねしょをしなかった。それも、この部屋に来たばかりの頃と同じだった。また最初からやり直しってことかも知れない。けれどやり直しってことならやり直せばいいだけだよな。そうさ、何度でもやり直してやる。何度でも沙奈子を育て直してやる。何度でも、何度でも。


しかも今は、僕一人じゃない。絵里奈も、玲那もいる。みんなで沙奈子を育てるんだ。そのために僕たちは家族になったんだから。


人生には、こういうことだってある。それは分かってる。だからそんなことにいちいち負けていられない。僕はもう、子供を持つ親なんだ。親が負けてたら、子供はどうなるんだ。僕は負けない。負けてられない。こんなことくらいで音を上げてたまるか。僕たちはやっと、スタート地点に立ったばっかりなんだからな。


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