千八百七十九 玲緒奈編 「赤ん坊自身もそれぞれ」
八月十九日。木曜日。曇り時々雨。
絵里奈は、朝から一階と『SANA』の事務所と二階の『ウォール・リビング』以外の部分と三階を徹底的に掃除してくれる。それを、沙奈子が手伝う。そして『ウォール・リビング』内は、玲緒奈が散歩に出てる間に僕か絵里奈か家に残ってる方が掃除を済ませて、それから買い物に行く形だ。
その上で、玲緒奈の隙を見て僕が掃除したりもするけどね。玲緒奈が見てる前で掃除しようとすると、消毒用のアルコールスプレーやウェットティッシュとか掃除用のワイパーとかをとにかく触りたがるから。
うっかり使っているところを見つかると『寄越せ!!』とばかりに手を伸ばしてくるし、「ごめんごめん、これは勘弁して」と言ったら、
「ぷおーっ!、ぷっぷうっ!!。あぶるるる!!」
とか、猛然と抗議してくるんだ。仕方ないから、粘着テープを使い切って芯の部分しか残ってない『コロコロ』を渡すと、
「うっぽ!、ぽぷう!、ぶるるるる!」
って、謎の『呪文』を唱えながら布団をコロコロしたりする。でも、迂闊に目を離すといつの間にかコロコロそのものを齧ってたりするから、今では玲緒奈専用のちゃんと消毒済みのコロコロを用意してたりもする。
ちなみに『赤ちゃん用のおもちゃ』もいろいろ用意したけど、玲緒奈は大きな音がするものは嫌いみたいだ。ペンギンの形をした電動のおもちゃを田上さんがプレゼントしてくれたんだけど、「ジーッ!」って音を立てながら自分に迫ってくるそれに、
「ぶあーっ!!」
と怒りの声を上げて蹴り飛ばして、倒れてもなお「ジーッ!」って音を立てながら動くのを見て、
「びゃーっ!!」
って声を上げながらトンネルの中に逃げ込んだりもしたんだ。かなり警戒してるね。
「ごめんね、せっかくプレゼントしてくれたのに」
僕が玲緒奈の反応を報告した上で謝ると、
「いえいえ!。こっちこそごめんなさい!」
田上さんはすごく恐縮してた。
ホントに、大人が『良かれ』と思って用意したおもちゃでも、赤ん坊自身もそれぞれ『好み』があって、決して大人の思い通りにはならない。そう。赤ん坊だって人間なんだ。『好き嫌い』はある。『心』もある。『感情』も持ってる。こちらの都合ばかりに合わせてはくれない、
『自分とは別の人』
なんだ。玲緒奈を見てるとそれを実感する。それこそが事実なんだって思い知らされる。それを、田上さんも知る。
「ホント、こうして見ると赤ちゃんはちゃんと人間なんだなって思います。私の母親は、そうは思ってなかったみたいですけど……」
沙奈子の机の上にセットしたスマホを通じて玲緒奈の様子を見ながら、田上さんはそう呟いたのだった。




