百八十六 玲那編 「鉄の檻」
それは、夢だった。夢を見てる時に、自分が夢を見てるんだって分かってしまった。それが何故かは分からないけど、夢だって分かってしまったんだ。
そこは、何もない部屋だった。コンクリートがむき出しの、固くて冷たい部屋だった。そこに、誰かが立ってた。黒っぽいワンピースを着た女の子だった。たぶん、10歳くらいかな。
沙奈子じゃない。沙奈子よりも髪が長くて、背も高い感じだった。でも10歳くらいだって思った。
その女の子は、僕から見て少しだけ横顔が見える感じで立ってた。その頬を涙が伝ってた。声を掛けようとしたけど、何故か声は出なかった。声が出ないから、代わりに手を伸ばそうとした。
その時、僕の気配に気付いたみたいに女の子が振り返った。知らない女の子だった。知らないはずなのに、どこかで見た気がする女の子だった。
ポロポロと涙を流すその女の子の顔は、濡れていた。涙で濡れてるだけじゃなく、濡れていた。赤く、ぬるっとした感じで濡れていた。
血だ…!。
僕はそれを血だと感じた。見ればその女の子の黒いワンピースも濡れてる感じだった。お葬式の時とかに着るようなワンピースが、濡れていた。生地が黒いから分かりにくいけど、それもきっと血で濡れてるんだって思った。
女の子が僕の目を見た。その目は僕の知ってる目だった。
玲那…?。
そう、その子は玲那だった。間違いない。玲那の目だった。僕を見詰める玲那の口が動いて、何かを言おうとしてた。最初は聞き取れなかったそれが、何度目かでようやく聞き取れた。
「ごめんなさい、お父さん…、ごめんなさい……」
何度もそう繰り返してた。そして僕は、その小さな玲那が右手に掴んでいるものに気付いてしまった。包丁だった。真っ赤に濡れた包丁だった。
僕を見ながら涙を流す玲那が、その包丁を両手で持ち直した。刃を自分に向けて。それを見た瞬間、僕は玲那が何をしようとしてるのかに気付いてしまった。だから止めようとした。止めるために手を伸ばした。なのに、届かない。どうしても届かない。僕の体が前に進まない。何かが邪魔をして、それ以上前に行けなかった。
僕の邪魔をしてるものが何かが分かった。鉄の檻だった。鉄の檻が僕と玲那の間にあって、僕はその隙間から玲奈に向かって手を伸ばしてる状態だったんだ。玲那は牢屋の中にいたんだって気付いた。
「お父さん、ごめんなさい…」
そう言って目をつぶった玲那の頬を、ひときわ大きな涙が伝った。
『やめろぉーっっっ!!!』
僕は思い切りそう叫ぼうとした。なのにやっぱり声が出なかった。その僕の目の前で、玲那が包丁を自分の首に突き立て、崩れ落ちるように倒れた。
なんで…?、どうして……?。
倒れた玲那の体の下から、血が広がっていく。そして僕は別の気配に気が付いて、ハッと後ろを振り返った。そこにいたのは沙奈子と絵里奈だった。二人もボロボロと涙を流してた。
牢屋の中で血を流して倒れる玲那と、その外から玲那を見ている僕と沙奈子と絵里奈がいたのだった。
………っっ!!?。
僕は、何もない中空に向かって必死に手を伸ばしてる自分に気付いて目が覚めた。そこは僕の部屋だった。布団に横になった状態で腕を天井に向かって伸ばしてた。
周りを見ると、沙奈子と絵里奈の姿が見えた。もちろん玲那も僕の隣にいた。いつもみたいに僕にぴったりとくっついて寝てた。すー、すー、って穏やかな寝息をたててた。
夢…、だよな…?。
そう、夢だっていうのは見てる時から分かってた。分かってたのに、目が覚めてからの方が本当に夢なのかどうか一瞬分からなくなって頭が混乱した。
伸ばした手を今度は自分の顔に当てて、はーっと深く溜息を吐いた。
まったく…、なんて夢だよ。悪夢にもほどがあるだろ…!。
僕は、声には出さずに毒づいてた。自分の体が汗でびっしょりになってるのに気付いた。そっと起き上がって着替えようとしてると、
「達さん…?」
って声を掛けられた。絵里奈だった。
「どうしたの…?。大丈夫…?」
寝ぼけた感じでそう聞いてくる絵里奈に、
「うん、ちょっと汗かいたから着替えてるだけだよ。大丈夫」
って応えた。そしたら安心したみたいにまた眠ってしまった。
大丈夫とは言ったものの、正直、精神的にはあまり大丈夫って感じでもなかった。本当に、なんて夢だよと思った。夢ってのは何かを暗示してたりとか、自分が無意識に感じてる不安とかが形になるって聞くけど、もしそれが本当だとしたらそれこそ縁起でもないって思った。
牢屋の中で血まみれで包丁持っててそれで自分を刺す玲那と、牢屋の外からそれを見てる僕と沙奈子と絵里奈って、一体なんだよ?。それが何かを暗示してるとか、冗談じゃない!。それだったら、僕が無意識に感じてる不安が形になったっていう方がまだ納得できる。自分が幸せ過ぎることが、僕は不安なんだ。こんなに幸せ過ぎたらその後で何か良くないことが起こるんじゃないかって何となく不安になってしまってるのが夢になったんだっていう方がまだマシだ。僕自身がこういう幸せに慣れてないからね。
それでふと思ってしまった。沙奈子がおねしょをするようになってしまったのって、こういうことなのかなって。幸せ過ぎてそれが逆に不安で、ストレスになってしまったのかなって。そう解釈はしてたけど、何だかそれが実感できてしまった気がした。
そう思うと今度は、急に安心した。そうだよ。これは幸せってものに慣れてない僕が勝手に不安になってしまってそれが夢に現れただけなんだって。予知夢とかそんなオカルト、僕は信じてない。そういうのに振り回されるのは僕はごめんだ。
そうそう、そういうことだ。まったく、我ながらどこまで心配性なんだって呆れてしまった。
でも、それでも、微妙に何かが引っかかる。僕と沙奈子と絵里奈は牢屋の外で、玲那だけが牢屋の中ってのがどうしても引っかかってしまってた。どうして玲那だけなんだ?。
もっともそれも、玲那が抱えてるものがそれだけ僕たちと比べても大きくて深いっていうのを感じ取ってしまってるだけかもしれないけど。いつか、玲那が抱えてるものと僕たちのそれとの差が何か大きな壁になって僕たちの前に立ちはだかるかも知れないってのを無意識に感じ取っていて、それが『檻』っていう形で夢に現れてしまったのかもしれない。うん、きっとそうだ。
だから、もしそんなことがあっても大丈夫なように心構えをしておこうっていうことなんだって考えたら、割としっくりくる気がする。
部屋着を着替えて、幸せそうに寝てる三人を改めて見て、これがもし無くなったりしたらって不安になるのも当たり前だよなって思ってしまった。だよね。この幸せを失くさないように僕はこれから頑張っていかなきゃいけないんだ。不安があるのは仕方ない。でもこの幸せを維持することでそれを打ち消していけばいいんじゃないかって、僕は思ったのだった。




