千八百十六 玲緒奈編 「実はそちらの意味でも」
六月十七日。木曜日。晴れ。
『私にとってあのスラックスは、宝物なんだ。でも、もし、誰か引き継いでくれるっていうんなら、譲ってもいい』
波多野さんのそれは、本心からのものだった。その波多野さんが、今日はうちに来て、学校から帰ってきた沙奈子たちと一緒に三階にいる。バイトが休みだからね。
せっかくだからということで、ビデオ通話でいろいろ話をする。
「実は、正社員にっていう話があったんだけど、ここんところの新型コロナの影響でさ、当面の間、延期ってことになったんだ」
「ああ、それは残念だね」
「うん。でも、こういうご時世だから仕方ないとは思ってるよ。社長も、『申し訳ない。落ち着いたら改めて考えるから』とは言ってくれてるしさ。もちろんそれがそのままOKってことになるとは限らないのは分かってる。世の中ってそんなに上手くいかないのもさ。だけど、その時はその時だよ。なるようになるし、なるようにしかならない。オタオタしたっていい方向に行くわけじゃないしさ」
「確かに。それは僕も意識してる。結果としてそんなに悪い方向にはいってないけど、だからって何もかも思い通りになってるわけじゃないからね」
「だよね。うちもそう。お父さんは相変わらず家に引きこもってて、ピカが寄越してくれたカウンセラーが何とか心療内科に引っ張ってってくれてるからそん時は家を出られてるだけで、そうじゃなきゃ、ゴミに埋もれて死んでてもおかしくない有様だよ」
「そうなんだ……。難しいね」
「まあね。でももう、慣れたかな。馬鹿兄貴もようやく判決が確定して刑務所行ったし。ただ、未決勾留差し引いたら半年で出てくるんだよ?。おかしいよね。ま、その点も、ピカが手配してくれてて、出所者の支援団体の方に行くことになるみたいだけどさ。実質、監視付けるためだよね。再犯しないように」
そこまで話したところで、一階の厨房で夕食の下準備を終えた絵里奈が戻ってきて、話に加わる。
「被害者の女性からしたら、たまったものじゃないもんね……」
「うん、マジそれ。加害者の人権って言うけど、まずは被害者の人権を考えてほしいって私も思う。だってそうじゃん?。加害者は被害者の人権を蔑ろにしたんだよ?。そりゃ、刑務所に入れられるのとかは人間が制限されるってことかもしれないけど、それだけじゃ納得いかないよ。私も納得いかない」
「難しい問題だよね」
波多野さん自身、お兄さんの被害者の一人だからこその言葉だと思う。
ただ同時に、波多野さんは『加害者の家族』でもあって、さらに、世間からの『私刑』で家庭を滅茶苦茶にされたという意味での『被害者』でもあるんだ。『加害者は被害者の人権を蔑ろにした』という話は、実はそちらの意味でも当てはまるよね。




