千七百七十七 玲緒奈編 「私がおとなしくしてるのは」
五月九日。日曜日。曇り。
僕は、沙奈子と一緒に暮らし始めて、そして今、玲緒奈と迎えて、『躾』という言葉のいい加減さを改めて実感してた。『躾』なんて、結局、大人の身勝手さを誤魔化すための詭弁でしかないって感じるんだ。
山仁さんもそうだったらしいけど、大事なのは『躾』じゃなくて、親が、自分の子供の前で、手本を示すことだとして、それを心掛けてきたそうだ。
『他者を罵らない』
『気に入らないことがあったり自分の思い通りにならないからって怒鳴らない。騒がない』
『ルールは守る』
というのを、イチコさんや大希くんの前で実践してみせたそうなんだ。だからイチコさんも大希くんも、誰かを罵ったり、自分の思い通りにならないからって大きな声を上げたり騒いだり、ルールを破ってそれを『当たり前のこと』と開き直ったりしないんだ。
だって、父親である山仁さんが二人の前でそういうことをしないように心掛けてたから、誰かを罵ったり、自分の思い通りにならないからって大きな声を上げたり騒いだり、ルールを破ってそれを『当たり前のこと』と開き直ったりっていう振る舞い方を知らなかったんだから。
知らないからできない。
自分の親がそれをしないから、『しないのが当たり前』だったんだよ。
僕の両親は、そうじゃなかった。他者を罵り、気に入らないことや自分の思い通りにならないことがあれば声を荒げ、自分に都合のいいようにルールを捻じ曲げてきた。その結果、兄は、両親の『良くない部分』を濃縮した人間に育った。
対して僕は、確かに誰かを罵ったり声を荒げたりルールを蔑ろにはしないようにしてきたけど、でもそれは、ただ単に、余計に面倒なことになるのを、両親や兄の姿を見てて悟ってしまっただけで、『躾』なんてなんにも関係なかった。面倒なことになるのが嫌だったから余計なことをせずおとなしくしてただけなんだ。
そもそも僕は、両親からほったらかしにされてて、それこそ『躾』なんか受けてきていない。
玲緒奈を連れて検診に行った時も、彼女は僕があやすとすぐに落ち着いてくれるから僕がついていったんだ。何も『躾』なんかしていない。
沙奈子に対しても、『躾』なんかした覚えもない。
そして、千早ちゃんや結人くんに対しても。
山仁さんも、千早ちゃんを躾けようとなんてしてなかったそうだ。鷲崎さんは結人くんを何とかして躾けなきゃと思ってたらしいけど、ほとんど効果がなかったらしい。
千早ちゃんが言ってたよ。
「私がおとなしくしてるのは、ピカ姉えやおじさんに迷惑を掛けたくないからってだけだよ。ピカ姉えやおじさんは迷惑を掛けたい相手じゃないからってだけ。逆に、あの人やお姉ちゃんに対しては、『むしろ迷惑を掛けてやりたい』って本音はある」
って。




