千七百四十 玲緒奈編 「実感がまったく得られない」
四月二日。金曜日。曇り。
『親の教育によって子供の性格や人格や価値観が決まる』
というのは、事実だと僕は感じてる。ただ同時に、それだけじゃ少し言葉が足りないかなとも思うんだ。
『親の教育』というものを、言葉だけ、口先だけで唱えてるものだと捉えてしまうと、それは違うものになってしまう気がして。
いくら、『相手を、自分とは別の人、別の人格を持った人と認めて敬う』と言葉だけ口先だけで子供に語ってみせたって、親自身の振る舞いが伴っていなければ、たぶん、伝わらないんじゃないかな。
『人に優しく』
『悪いことはしない』
『他人に迷惑を掛けない』
その程度のことは、ほとんどの親が子供に対して口煩いくらいに言ってるんじゃないかな。だけど、親から口煩くそんな風に言われてきた子供でも、他人を平気で傷付けられるのに育ってしまうことがある。
だからそれを、
『子供本人の資質の所為』
って考えたいんだろうけど、でも僕の実感としては、
『そうやって子供の所為、つまり『自分以外の誰か(=他人)の所為』にする親の姿』
が大きく影響してるんだろうなって、今はすごく感じる。いくら口先だけで『人に優しく』『悪いことはしない』『他人に迷惑を掛けない』とか唱えてても、その親が、
『他人を見下して』
『ルールを守らず』
『自分が他人に迷惑を掛けていることに気付いてない』
なんて状態だったら、どんなに口先だけで綺麗事を並べたところで子供だって納得できないと思う。僕だって納得しないし、してこなかった。
父親が母親を、母親が父親を、敬うことなく馬鹿にして見下して蔑んでたりしたら、『人に優しく』なんて空々しくて薄ら寒い『戯言』にしか思えないんじゃないの?。
『こんな奴、敬うとかできない!』
って言うんなら、どうしてそんな相手と結婚したの?。なにがよくてその人を選んだの?。結婚してから『こんな奴、敬うとかできない!』って感じるような相手を選んだのは、他でもない自分だよね?。その自分自身の『責任』をどう考えているの?。敬えないような相手を選んだ自分の判断をどうしてなかったことにするの?。
そうやって『誰かの所為』にする姿を子供の前で見せてて、それで子供が自分の行いを『誰かの所為』『自分以外の何かの所為』にすることを学び取ってしまわないと、本気で思うの?。
今、玲緒奈前にして、玲緒奈の視線を浴びてて、僕には、
『子供は、親の『言葉』』以上にその振る舞いそのものから『人としての在り方』を学ぶ』
以外の実感がまったく得られないんだよ。
だから僕は、言葉以上に自分の実際の振る舞いや言動で示さなきゃいけないと感じるんだ。




