千六百六十八 玲緒奈編 「そんな行為の果てに」
一月二十日。水曜日。曇りのち晴れ。
『新型肺炎』の感染が、外国へも広がり始めているとニュースが告げてた。でもこの時点ではまだ、『SARS』とかの時と同じようなものだろうなっていうのが正直な印象だった。
セックスを『汚らわしいもの』『不快なもの』と考えてたら、自分自身がそんな両親の『汚らわしい行為』『不快な行為』の結果として生まれてきたんだっていう認識になるんじゃないのかな?。ううん、僕自身、そう思ってた気がする。両親のそんな行為の結果として自分が生まれてきたんだって、具体的に考えてはいなかったとしても、心のどこかでそんな風に思ってた気がするんだ。だから僕は、自分自身が好きじゃなかったのかもしれない。
『汚らわしい行為・不快な行為の結果として生まれてきた、穢れた存在』
そう感じていたのかも。
兄があんな人間だったのも、
『汚らわしい行為・不快な行為の結果として生まれてきたんだから、当然』
って感じていたのかな。
でも、もしそれが本当なら、玲緒奈さえ、僕と絵里奈の『汚らわしい行為』『不快な行為』の結果として生まれてきたってことになってしまう。『穢れた存在』ってことになってしまう。
違う。それはおかしいよ。僕は絵里奈を愛してる。彼女だから僕は求めたんだ。汚らわしくも、不快でも、なかった。それどころか、すごくすごく嬉しくて、心地好くて、癒された。彼女のぬくもりに包まれてることが、たまらなく幸せだったんだ。その結果として、玲緒奈は生まれたんだ。僕と絵里奈が愛し合ってたから、生まれたんだ。
玲緒奈には、そんな自分を誇ってほしい。
そうだよ。玲緒奈の存在は、誰に恥じるものでもない、汚らわしくも不快でもない、素晴らしいものなんだ。玲緒奈の存在そのものが、『幸せ』なんだ。『幸せの形』そのものなんだ。
僕と絵里奈にとってセックスは、『幸せ』そのものなんだよ。その幸せが、玲緒奈という次の幸せを運んできてくれた。
それが、僕にとっての『セックス』。
他人からすれば恥ずかしいことを言ってるように感じるかもしれないけど、それを『恥ずかしい』と感じるということは、自分自身をそんな恥ずかしい行為によって生じた『恥ずかしい存在』って感じてるのと同じような気がするんだ。
もちろん、だからって声高らかに公言するようなことじゃないとも思うけどさ。『恥ずかしいこと』というのも、『他人には決して見せない姿をお互いに見せてる』っていう意味でなら、確かに恥ずかしいことだとも思うし。
だけど決して、『汚らわしい行為』でも『不快な行為』でもないよ。玲緒奈はそんな行為の果てに生まれたんじゃない。




