百六十六 玲那編 「新生活」
朝、僕は何かの気配に目を覚ました。と言うか、匂いか。いい匂いがして、それで目が覚めたんだと思う。ご飯が炊ける匂いと、魚の焼ける匂いだ。目が覚めた時にこんな匂いなんて、何年ぶり、いや、もう十年以上は嗅いでない気がする。
気配のする方に視線を向けると、そこはキッチンだった。キッチンに誰かが立っていた。桜色のスウェットを着た…、絵里奈だった。
沙奈子はまだ寝ていた。玲那もまだ寝てる。時計を見ると、アラームが鳴るまでまだ30分以上ある。それなのに絵里奈は、もう起きてご飯を炊いて魚を焼いてたのか。
ぼんやりしてた頭がはっきりしてきて、僕は体を起こした。玲那と沙奈子を起こさないようにそっと。それから改めて、こちらに背を向けてキッチンに立つ絵里奈の姿を見詰めた。
普通、こういう時は、自分の母親とかのことを思い出すのかもしれないけど、僕はキッチンに立っている母親の姿なんてあまり見た覚えがなかった。食事は殆どデリバリーかレトルトで、母親の手料理と呼べるものさえ殆ど覚えてない。特に最近は、両親に関する記憶自体がものすごい勢いで薄れていってる気がする。それは、最近の幸せな出来事で、記憶が上書きされていってるからかも知れないとさえ思えた。
だから、キッチンに立つ絵里奈の後姿を見ても、『お母さん』っていう実感はなかった。ただ、こういうのがお母さんの姿なのかなっていうのは思った。
「おはよう…」
僕が声を掛けると、「ひゃんっ!」って小さな声を上げて絵里奈の体が跳ねた。驚かせてしまったみたいだった。慌てて振り向いた絵里奈が僕を見て、
「おはようございます。あ~、びっくりした。起こしてしまったんですね。ごめんなさい」
って言ってきた。いやいや、謝るのは僕の方だよ。
「驚かせてごめん。もしかして、朝ご飯作ってくれてるのかな?」
僕が聞くと、絵里奈が照れ臭そうに笑って言った。
「はい、沙奈子ちゃんと達さんに食べてほしくて」
それが申し訳なくて僕は頭を下げていた。
「そこまで気を遣わせてしまって、本当にごめん」
そんな僕に絵里奈が、また慌てた感じになった。
「いえいえそんな、お邪魔してるのは私の方ですから、私の方こそ気を遣わせてしまってごめんなさい」
お互いにごめんなさいを言い合って目が合って、そしたら急に二人してぺこぺこしてるのがおかしくなってきてしまった。見詰め合ったまま笑えてきてしまってた。
するとその時、
「な~に朝っぱなから二人だけでいい雰囲気になってんですか~?」
って声が聞こえてきて、僕も絵里奈もビクッと体が跳ねてしまった。
声の方を見たら玲那が布団の上で胡坐をかいて僕たちをジト~って感じで見てた。玲那が来てる部屋着は、丈の長いトレーナーみたいな服で、ズボンとか穿いてないから胡坐をかくと下着が見えるんだけど、何だか焦ってしまっててそれどころじゃなかった。
「あ、いや、別にそういうわけじゃ…、って、魚が焦げちゃう!」
そう言って絵里奈はコンロの上に網を置いて焼いてた魚、たぶん塩サバをひっくり返してた。そんな僕たちの様子を見て、玲那はクスクスと笑い出した。
「うそうそ、お似合いだよ、二人とも。お父さん、お母さん」
悪戯っぽく笑いながら玲那が言った時、沙奈子も体を起こした。さすがに賑やか過ぎて目が覚めちゃったか。
「おはよう、沙奈子」
「沙奈子ちゃんおはよう」
「おはよう、沙奈子ちゃん」
僕たち三人の挨拶を聞いて頭がはっきりしたらしい沙奈子が、玲那や僕たちの方を何度も見て嬉しそうに笑った。
「おはよう、お父さん、お母さん、おねえちゃん!」
その声がまた嬉しそうで、僕は頬が緩んでしまった。ほんの何か月か前とは、本当に別人みたいだ。普通の家族の中にいれば、沙奈子はこんな子だったんだっていうのがすごく分かる感じがした。
それから沙奈子と玲那が布団を片付けてくれて、僕と絵里奈は朝食の用意をした。魚を焼くのにコンロを使ってたから味噌汁までは作れなくて、インスタントのを電気ポットのお湯で溶いた味噌汁になってしまったけど、その分、ご飯と塩サバの普通の朝ご飯って感じの朝食になった。
その前にトイレに行って着替えてってしてると、さすがにこれだけ人がいると沙奈子も諦めたのか、もう変に隠そうとせずおむつをゴミ箱へ捨てていた。だよね。みんなが知ってるんだから、今さらって感じかもしれない。でも誰もそれを笑ったりしない。いつかきっと治るってみんなが信じてる。自然に治るのを待ってくれてる。それが治った時、その時にようやく沙奈子の辛かったあの頃が過去のことになるんだって気がしてる。そんな日がいつか来る。僕たちはただそれを待ってればいいんだ。
そして同時に、沙奈子のおかげで僕たちがこうして集まれたことを、彼女に感謝したい。沙奈子がいなければ、僕たちはきっと出会ってなかったんだから。玲那や絵里奈が僕に声を掛けてくれたのだって、沙奈子が来たことで僕の表情が柔らかくなったからだって、確か以前二人が言ってた。だから沙奈子がいなかったら、いくら社員食堂で一緒になってても、僕と二人は口をきくこともなかったと思う。みんな沙奈子のおかげだよ。こんな風に、四人でコタツに入って朝食を食べられるなんて。
毎日トーストでも僕は平気だったし沙奈子も文句一つ言わなかったけど、やっぱり、温かいご飯の朝食もいいなあ。
そうして朝食が終わると、今日は四人で掃除と洗濯とを手分けしてすることになった。僕は風呂掃除。沙奈子と玲那は部屋の掃除。絵里奈は洗濯って感じだった
掃除は分担してたからいつもより早く終われたけど、逆に洗濯は四人分ってことになったから一回では終われなかった。しかも洗濯用のラックだと四人分を干すには全然足りなくて、結局、またベランダに干すことになった。
ただ、例のカメラとかのことがあって心配だった僕がそのことを話すと、絵里奈が、
「じゃあ、ちょっと覗き対策とかの為に、後で買いものに行きましょうか」
って言いだした。
でもその前に、沙奈子の勉強を終わらせる。それからいつもの大型スーパーにみんなで出掛けた。だけど今日は、荷物が多くなりそうだから、僕の自転車を押して持っていく。乗らなくても荷物を積んで運ぶにはちょうどいい筈だっていうことで。
沙奈子も、みんなでの買い物はやっぱり嬉しそうだった。スーパーに着くと、絵里奈が園芸コーナーに行って、日よけ用のサンシェードっていうのを持ってきた。本当は夏の方が品揃えもよかったらしいけど、とりあえずあったもので工夫するらしい。それから家庭用品コーナーで、窓に貼るタイプの目隠しシートも手に取った。それを見てるうちに、彼女が何をしようとしてるのか、僕にも分かってきたのだった。




