百五十九 沙奈子編 「出勤」
朝、またアラームが鳴る少し前に目が覚めた。僕が体を起こすと、沙奈子も目を覚ました。「おはよう」って声を掛けると、「おはよう」って応えてくれた。それに気付いたみたいに今度は玲那が布団から顔を出す。今日は昨日ほどは髪は滅茶苦茶じゃなかった。
「おはよ~」
だらけた感じのそれにも、僕と沙奈子は声を揃えて「おはよう」って返した。すると玲那が嬉しそうに笑った。
ただ、それからは結構忙しかった。僕と沙奈子はいつも通りだったけど、玲那は滅茶苦茶になった髪をセットしなきゃいけないのと、ある程度はメイクもしなくちゃいけないっていうんで風呂場にこもって必死になってるのが伝わってきた。もうちょっと早く起きるべきだったのかな。僕と沙奈子のを基準にしてたら合わないのか。
でも何とか余所行きの顔を作った玲那が出てくると、後はみんなで朝食になった。僕の用意も沙奈子の用意も終わった時には、さあいよいよだっていう感じになってた。
「化粧品とか歯ブラシとか、ここに置いて行っていいかなあ?」
と玲那が聞いてくる。どうせ最初からそのつもりだったんだろって思ってしまって僕はニヤニヤしながら「いいよ」って応えた。
「じゃあ沙奈子ちゃん。また金曜日の夜に帰ってくるからね」
だって。もう完全に一緒に住むつもりだな。だけど沙奈子も「分かった」って嬉しそうに応えてた。
僕と玲那が家を出る時、沙奈子は僕たち両方にいってらっしゃいのキスをしてくれた。だから僕たちもお返しのキスをした。
「行ってきます」と、玲那と一緒に玄関を出る。とその時、若い男の人と鉢合わせた。隣の部屋の人だった。僕は慌てて会釈した。玲那も「おはようございます」って頭を下げた。だけどその若い男の人は、確かに「チッ」っと小さく舌打ちをしたのだった。
バス停まで行った時、玲那が声を掛けてきた。
「お父さん、何?、さっきの人。感じ悪いね」
不機嫌そうな玲那に僕は応えた。
「隣の部屋の人だよ。もしかしたら僕たちが騒がしくし過ぎたのかもしれない。申し訳ないって思ったよ」
そんな僕の言葉に、
「お父さんはホントに優しすぎだよね」
って玲那が苦笑いした。
でも、玲那はそう言ってくれるけど、僕はただ気遣いとかいう意味で言ってるわけじゃないんだよね。もしそういうことで疎まれて悪い因縁作ったらこっちが困るというだけで、面倒なことを避けたいっていうだけのことだったりするから。たぶん、優しさとかとは違うと思う。
ただまあそういうことはおいおい説明するとして、今日はとにかく仕事だよ。二人で一緒にバスに乗って、会社に向かう。もしかしたらいずれ沙奈子ともこういうことがあったかも知れないっていうのを早く経験することになって、なんだか不思議な気分だった。
「私、今まで自転車だったけど、バスってけっこう大変だね」
あ、そうだったんだ。知らなかった。僕はもう慣れたけど、確かにこの時間は人が多いからね。それでもとにかく会社に着くと、玲那はもうすでに疲れた顔をしてた。けどその時、
「おはよう。仲良く一緒に出勤?」
聞き慣れた声に思わず顔を向けると、そこにいたのは絵里奈だった。もう既に制服に着替えてて腕を組んで仁王立ちで、いつもとはかなり雰囲気の違う、明らかに怒ってる顔だった。
「山下さんはどうぞこのまま仕事に行ってください。でも玲那はこっちね」
首根っこを掴む感じで絵里奈が玲那を連れていく。
「ひ~っ、絵里奈ごめんなさ~い!」
とは言ってるけど、その顔はどこか嬉しそうに見えた。絵里奈にしたって、たぶん本気で怒ってるんじゃないと思う。自分に相談もなく勝手に決めたことに文句を言いたいだけって感じじゃないかな。昼休憩に二人がどういう顔で現れるか、ちょっと楽しみだなって気がした。
僕は設計部のオフィスに入って、いつものように仕事を始める用意をする。相変わらずと言っていいのかどうか分からない英田さんの様子に、やっぱり胸が痛む感じがしてしまう。大切な人を亡くすっていうのはこういうことなんだって思い知らされる。いつか英田さんもまた笑えるようになってくれればと思う。ただ、それを軽々しく口にする気にはなれなかった。どういう言い方をしたって無関係な人間の無責任な言葉にしかなりそうになかったから。
親切心からなら何を言っても構わないとは僕は思わない。例え悪気じゃなくたって迂闊に口にして良いことと良くないことがあると思う。それに言い方だってあるだろうな。僕には大丈夫な言い方みたいなものは何一つ思い浮かばない。だから言わない。
今、僕にできることはただ仕事をこなすことだけ。それだけだ。
午前中の仕事が終わり、社員食堂へと移動する。総務のオフィスよりも設計部のオフィスは遠いからその分だけどうしても時間がかかる。案の定、二人の姿があった。その様子はいつもの感じだった。良かった。ちゃんと仲直りできたんだと思った。
「お父…じゃなかった山下さん。いろいろご迷惑をおかけしてしまいました」
と開口一番、玲那がそう言って頭を下げてきた。お父さんと言いかけて慌てて苗字に言い直したのが分かった。それも含めて、きっと、絵里奈にそう言うように言われたんだろうなっていうのが分かってしまって、僕は思わず苦笑いした。
「ああいいよ、ぜんぜん迷惑なんかじゃなかったから。それどころか沙奈子がすごく楽しそうだったからね。充実した3日間だったんじゃないかな」
それは僕の本心だった。沙奈子が喜んでくれたのなら細かいことはどうでもよかった。それよりも。
「じゃあ今度は本当に、絵…山田さんにお願いしようかな」
僕も思わず絵里奈って言いかけて言い直した。慣れるまでは使い分けはちょっと大変かも知れない。だけどそういうのも何か楽しいって気がした。
「はい、その時は教えてくださいね」
絵里奈が嬉しそうに笑いながらそう言った。いつも通りな感じだと思った。でもこれから僕たちは四人で助け合って生きることになるんだなっていうのも実感できた感じがした。
でもこれは全て、沙奈子がもたらしてくれたものだっていう気もする。沙奈子が来なかったら、こうはなってなかったはずだから。あの子自身、これで救われるというのもあるとしても、あの子が僕たちを救ってくれたっていうのもすごく感じる。本当に不思議だよな。
って言うか、もしかしたらみんな、沙奈子のところに集まってきてる感じかな? 僕もある意味ではあの子に呼び寄せられたのかも。
そうだ。僕やこの二人だけじゃない。大希くんや石生蔵さんも結局、沙奈子のところに集まってきたってことになる気がする。元々、沙奈子に、そういう人を呼び寄せる力があるのかもしれないと、僕は思ったのだった。




