千五百八十 絵里奈編 「自分らしく生きられるための」
十月二日。金曜日。晴れ。
『性的な目で見られるのが嫌』って話だと、僕たちの間では本当にそういう目でお互いを見ないのが当たり前になってるな。
星谷さんはどうしても大希くんに対して少なからず意識してしまってるのは確かにあるけど、だからって『危ない目で見てる』とかそういうのじゃないと思う。しかも大希くんの方は、中学二年生になっても、星谷さんたちのことを女性として意識してないのも分かる。
結局、『相手を人間として見る』っていう感覚が当たり前になってるんだ。
ただ実は、それをもって、
『ジェンダーフリーみたいな考え方をしている』
とか言われると、正直、違和感しかない。性別は性別としてそこにあるのは前提としながらも、あくまで『それに振り回されてない』って言うか。
『ジェンダーフリー』って言葉を振りかざすこと自体が、僕にとってはなんとなく不自由を感じてしまうんだ。
『自由でなければいけない!!』
みたいなことを声高に主張されると、逆に息苦しさを感じてしまうのと同じかな。
僕たちはたまたま、それを気にせずにいられてるっていうだけで、これが一番、リラックスできるっていうだけで、
『僕たちのような在り方こそが正しい』
と主張する気はないんだよ。それを主張して押し付けようとするのは、ぜんぜん、リラックスできる気がしないんだ。
だから家でも、玲那が裸同然の格好で寛いでいても気にならないし、沙奈子が僕のいるところで服を着替えていてもまったく気にならない。
たぶん、『性』というものを意識しすぎてそれがストレスになるのが嫌なんだと思う。
だって、好んだって嫌ったって『性』は厳然としてそこにあって、否応なく現実を突き付けてくるんだ。沙奈子や玲那の月経も、絵里奈の妊娠・出産だってそうだ。
そして、女性だったことで酷い目に遭った玲那や波多野さんでさえ、だからって女性じゃなくなることもできない。
だったら、それを意識しすぎてストレスに感じるよりも、『ただただそこにあるもの』として受け入れた上で受け流してしまった方がずっと楽なんだ。玲那も波多野さんも、そうすることで自分が女性であることとそれによって受けた被害についても受け止めることができてる。
少なくとも、僕たちにとってはこれが、
『現実と向き合い、同時に、一番自分らしく生きられるための最適解』
なんだと思う。
でも、その一方で、波多野さんのお兄さんに乱暴された被害女性に、『僕たちと同じ考え方になれ』とは、決して言わない。僕たちの考え方・在り方を押し付けない。
それを押し付けないこと自体が、
『僕たちらしさ』
なんだと思う。




