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僕に突然扶養家族ができた訳  作者: 太凡洋人
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千五百五十七 絵里奈編 「他人にはそこまで分からない」

九月二十一日。月曜日。晴れ。




連休中、千早ちはやちゃんと大希ひろきくんは、毎日、うちに来ることになってる。


午前中から来て、沙奈子と一緒に二階で勉強したり遊んだりして過ごして、時々、歓声が聞こえてきたりするのを一階で聞いてると、なんだかとても嬉しかった。


僕と沙奈子が本当の親子じゃないとか、玲那が事件を起こしてしまったとか、そういう諸々がありながらこうしていられるのが、本当に嬉しい。素晴らしいことだと思う。


もちろん、事件を起こしてしまった玲那に対する世間の目は今も厳しくて、迂闊に遊び歩いたりというのもできないというのも事実だけどね。


たぶん、そうやって楽しんでたりしてるのを気付かれれば、きっと、


『何も反省してない!』


って言われるんだろうな。


『寛容』って言葉がしきりに言われるようにはなったけど、それが言われるということは、つまり今はまだそうじゃないってことなんだ。本当にそれが当たり前になったら、わざわざ口にする必要もないはずだからね。


『寛容が行き過ぎたら、誰も彼もが勝手なことをして世の中がメチャクチャになる!』


みたいなことを言ってる人もいるらしいけど、でも、そういうことを口にする人は、自分のやってることについて他人に寛容を求めたりしないのかな?。他人を不快にさせるような言動をしておいてそのことを批判されたら、素直に反省するの?。他人を罵ったりしてないの?。『言論の自由』や『表現の自由』を盾にして好き勝手に暴言を吐くっていうのは、『言論の自由』や『表現の自由』に対する他人の寛容さを期待してるってことじゃないの?。


他人に寛容さを求めておいて、自分は他人に対して寛容じゃないというのは、身勝手というものじゃないの?。


その一方で、


『犯罪を犯してもそれを大目に見るのが寛容というもの』


みたいには、もちろん僕も思わない。『寛容』というのは、あくまで、玲那のように、


『罪を犯してしまったことを悔いて、それを改める努力をしている人』


についてはあたたかく見守るようなことを言うんだと思ってる。


ただ同時に、果たして本当に反省してるかどうかを見極めるのも難しいのは事実だけどさ。僕は玲那をずっと傍で見てきてたくさん話をして彼女が本当に悔いていることは分かってても、他人にはそこまで分からないというのも事実だと思う。


だから、


『反省しているように振る舞っている分には余計な口出しはしない』


というのも、『寛容』と言えるのかもしれない。



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