百五十四 沙奈子編 「就寝」
僕と沙奈子と伊藤さんは、二つ並べた布団に寝た。寝る前、沙奈子が伊藤さんに、
「おやすみなさい」
と言いながら頬にキスをした。すると伊藤さんも、
「おやすみなさい、沙奈子ちゃん」
と言ってお返しのキスを沙奈子の頬にした。沙奈子は嬉しそうにもじもじして、それからいつものように僕の隣に横になった。そしてやっぱりいつものように莉奈と果奈を寝かしつけるようにした後、僕の方にくっつきてきた。だから僕もおやすみのキスをして、お返しのキスをもらって、胸に顔をうずめて寝るのを見守った。
今日は伊藤さんがいるから興奮して寝られなかったりするかと思ってたけど、意外とすぐに寝息を立て始めたのだった。完全に寝付いたのを確認して沙奈子の頭を枕の上に下ろして、僕は仰向けになった。すると少しくぐもった小さな声が聞こえてきた。
「沙奈子ちゃん、寝ました…?」
伊藤さんだった。さすがに10時くらいだと大人はすぐには寝られないよな。「うん」と応える僕に、伊藤さんが話し掛けてくる。
「本当に、すいませんでした…」
唐突に謝られたけど、たぶんお風呂の時のことだと思った。だから、
「大丈夫、沙奈子も気にしてないみたいだから」
って応えた。少しだけ横を向くと、伊藤さんが頭まで布団をかぶってるのが分かった。また泣いているのかもしれないって気がした。僕はそれ以上、何も言わなかった。そしたらまたしばらくして、
「山下さん…、くっつかせてもらってもいいですか…?」
って聞いてきた。僕が「いいよ」って静かに応えると、もそもそと布団の中で動く気配がして、伊藤さんの体が僕の腕に触れるのを感じた。温かかった。そう思った僕の耳に、伊藤さんの声が届いてきた。
「山下さんって、温かいですね…、何だかホッとします。沙奈子ちゃんが言ってた通りです…」
僕も応えた。
「そう…、それは良かった…」
すると今度は、ふるふるとした感触が伝わってきた。伊藤さんが震えてるんだって分かった。そして伊藤さんが小さな声で話し出した。その声も震えてる気がした。
「ごめんなさい…、私、沙奈子ちゃんにヤキモチ妬いてたのかも知れません…。山下さんにこんなに大事にしてもらえて、こんなに幸せそうで…。だからつい、私の胸の傷のことをあんな風に話してしまった気がします。沙奈子ちゃんを困らせたかったのかもって…」
布団をかぶったまま、震えながら伊藤さんが続ける。僕は黙って耳を傾けた。
「でも…、でも…、沙奈子ちゃん、私のことかわいそうって…、私のために泣いてくれて…。沙奈子ちゃん、優しすぎますよ…。私、自分が恥ずかしい…。私の方が沙奈子ちゃんよりずっと子供みたい……」
布団の中で伊藤さんが泣いているのが気配だけでも分かってしまう。小さく鼻をすする音もしていた。僕は、伊藤さんの方に体を向けた。そして布団から少しだけ覗いてる頭をそっと撫でた。それが合図になったみたいに、伊藤さんはもっと僕にくっついてきて、沙奈子と同じように僕の胸に顔をうずめてきたのだった。
「ごめんね…。沙奈子ちゃん、ごめんね…」
そう何度も謝る伊藤さんを、僕は布団の上から抱きしめた。するともう、伊藤さんの口から漏れてきたのは、意味のある言葉じゃなかった。「う…、うえ…、うえぇぇん」って、まるで小さな子が泣いてるみたいな嗚咽だった。そうだ。沙奈子と同じだ。沙奈子と同じように、伊藤さんも泣きじゃくっていた。ずっと辛いことを我慢して我慢して、耐え切れなくなって泣いてるそれだった。
僕はただ、そんな伊藤さんを抱き締めて、とんとんと布団ごしに、沙奈子に対してするように軽く背中を叩いてた。伊藤さんはそんな僕の胸の中でいつまでも泣き続けたのだった。
僕はふと、自分の目が覚めるのを感じた。外はまだ真っ暗だった。どうやら、僕も伊藤さんも、そのまま眠ってしまっていたらしかった。僕もいつの間にか仰向けの体勢に戻ってた。でも伊藤さんが僕の腕にくっついてる感触はまだあった。
って言うか、僕の手に温かくて柔らかい感触があった。たぶん、伊藤さんの太ももの感触だと思う。体を丸めた感じで寝てる伊藤さんが、僕の手を太ももに挟んでるんだって思った。
どうしよう…?。
そんな風にされてても、僕は興奮するとかいうのはなかった。ただこの体勢がきつくなってきてそれで目が覚めたんだと思う。出来れば何とか体勢を変えたいと思うんだけど…。
それにしても、伊藤さんはしっかり自分の着替えも用意していた。泊まることを思い付いたみたいな言い方をしてたけど、完全に最初から出来れば泊るつもりだったんだろうな。でもそれは別によかった。どっちでも構わない。ただこうやって僕の手を取って寝るくらいだから、本当はずっと前からこうしたかったのかもしれないとも思った。こうして縋り付いて泣きたかったんじゃないかなって思った。だったらもっと早くこうしてあげてればよかったかなって気もする。僕がもっと早く伊藤さんの気持ちに気付いてあげられてたら…。
いや、それも考えても仕方ないことか。たぶんこれより前だと、僕の方が伊藤さんのことを受け止めきれてなかったかも知れない。僕と沙奈子と伊藤さんと山田さんの四人で一緒に住んでも構わないかもって思えるくらいになってようやく、こういうこともあるかもっていうのが僕にも覚悟できたのかもしれないし。
そう考えると、ちょっと辛いけど、もう少しこのままでいてもいいかって思えた。伊藤さんがやっとこうして寝ることが出来たんだと思ったら、出来るだけこのままにしておいてあげたいと素直に思えた。そして僕は、再び眠りに落ちて行ったのだった。
でも空が明るくなり始めた頃、さすがにもう厳しくなってきてまた目が覚めた。体が固まって痛い。そこで申し訳ないけどそっと腕を抜かせてもらって、体勢を変えさせてもらった。やっとホッとして、まだ体は少し痛かったけど、僕は三度眠りについたのだった。
朝、いつものアラームが鳴り始める少し前、また僕は目が覚めた。時計を見てそっと体を起こした。すると、沙奈子がもそもそと体を動かして、顔を上げた。
「おはよう」
僕がそう言うと、
「おはよう」
って応えてくれた。でも沙奈子はハッとした感じで何かを探すみたいに辺りを見回して、言った。
「れいなおねえちゃんは?」
ああそうか。伊藤さんが完全に布団にもぐってるから見えなくて分からなかったのか。僕が視線を向けると、そこに伊藤さんがいることが分かったみたいで、沙奈子がホッとした顔になった。
沙奈子、やっぱり伊藤さんのこともちゃんと好きなんだなって改めて感じた。その時、布団がもそもそと動いて、伊藤さんが顔をのぞかせた。でも髪の毛が滅茶滅茶に絡まって顔にかかって、すごいことになっていた。
それを見た沙奈子は一瞬びっくりしたみたいだったけど、それが伊藤さんだと分かった途端、くすくすと笑いだしたのだった。
「れいなおねえちゃん、お化けみたい」




