千五百四 絵里奈編 「イチコさんの前では」
七月三十日。木曜日。晴れ時々雨。
昨日のイチコさんの話で、山仁さんの奥さんが闘病中に山仁さんを強く罵るようなことがあったのを改めて聞いて、人間っていうのは弱いところもあるんだっていうのをすごく感じた。
イチコさんは言ったんだ。
「お母さんは、私の見てる前ではお父さんのことを罵ったりしないようにはしてくれてたけど、でも、普段の態度がそれまでとは全然違ってたことは私だって気付いてたし、いくら隠そうとしても、聞こえてたことだってあったんだよ。
だから私、お父さんに聞いたんだ。『どうしてお母さん、あんなひどいこと言うのかな』って。そしたらお父さんは、『人間だからだよ』って。
人間だから弱いところもあるし、自分が死ぬかもって思ったら、それまでは気にもしてなかったこととかまで気になったりすることもあるんだって。
お母さんが、お祖父さんのことで苦しんでたお父さんを助けたかったのは本心だっていうのは間違いないんだ。
だけど、人間は、矛盾したいくつもの感情や想いを同時に持つことのできる生き物なんだってさ。それで言ったらお母さんがそんな風に言っちゃっても何も不思議はないとも言ってたよ。
しかもお母さんの場合は、たった四ヶ月くらいしか時間がなかったんだ。それを受け止められるようになるまでの時間もなかったんだから、当たり前なんだって。
お父さんがそう言ってくれたから、私はお母さんのことを嫌いにならずに済んだんだよ。そうじゃなかったら、いくら病気だからってあんなひどいこと言うお母さんのこと、嫌いになってたかもしれない。
ホント、お父さんには感謝してる」
イチコさんのお母さんは、本当に『死の淵』に立たされたから、正気ではいられなかったんだろうなって思う。それでも、イチコさんの前では山仁さんを罵らないようにしようと考えられただけでもすごいんじゃないかな。
世の中には、別に死の淵に立たされてるわけでもないのに誰かを罵る人もいるよね。それを思えばイチコさんのお母さんは立派だっていう気がするんだ。
イチコさんの話を受けて、絵里奈も言ってた。
「私も、もし、自分が死ぬかもしれないってなったら、周りに当たり散らしてしまうかもしれません……。私は、弱いですから……」
と。
でも、僕は、
「そうだね。けど、それは僕も一緒だと思う。だから気にしなくていいよ。ただの憂さ晴らしのためにどこかの誰かを罵ったりしたら僕も黙っていられなくても、正気じゃいられないくらいに辛い時に僕に当たるだけなら、構わない。当たってくれたらいい」
そう応えさせてもらったのだった。




