十四 沙奈子編 「失態」
山仁さん親子を見送った僕と沙奈子は、部屋に入って荷物を下ろしてまた床に寝転がって、とりあえず一息ついた。なんか、すごく色々あったような気がする。部屋の鍵を渡し忘れて他人に迷惑を掛けてしまったとか、当分引きずりそうだ。
けれどその一方で、僕と同じように男手一つで子供の面倒を見てるという人に実際に出会えたのは、むしろ幸運だったのかもしれない。自分の子供をずっと育ててくることと、一応血の繋がりはあるとはいえほとんど初対面にも近かった自分のじゃない子供を育てることは違うかも知れないけど、それでも共通する部分も少なくないはずだ。『気軽に相談してください』というのはただの社交辞令かも知れないけど、そう言ってもらえるだけでも気が楽になった感じもする。
「沙奈子、臨海学校は楽しかったか?」
寝転がったまま、同じように寝転がった沙奈子に聞くと、彼女は頷いた。さらに僕は、
「お友達の家も楽しかったか?」
とも聞いてみた。そしたら沙奈子は、さっきよりも大きく頷いて、
「楽しかった」
と言った。沙奈子が声を出して返事をするなんて、よっぽど楽しかったんだと思った。たぶん、臨海学校そのものより。何しろ、その後で「どんなことがあった?」とか「どんな事した?」って聞いても、
「ハンバーグおいしかった」
とか、
「ゲームした」
とか、
「動画見せてもらった」
とか、友達の家でのことばかりで、臨海学校でのことは、「きれいな貝殻ひろった」とか「キャンプファイヤー熱かった」とかくらいしか話さなかったくらいだし。それでも決して楽しくなかったわけじゃないと思う。話した内容は少しだけど、表情は明るかったから。だから、臨海学校以上にその友達と一緒にいられたことが楽しかったんだと思う。
「楽しめたみたいで、良かった」
そう言った僕に、彼女はまた頷いた。
それにしても、沙奈子が他の子とこんなに親しくできるなんて、すごい事だと思った。よっぽどあの山仁さんの息子さんと気が合うんだと思った。そのことに対してヤキモチっていうわけじゃないんだけど、何となく負けたような気分にもなった。いや、勝ち負けの問題じゃないのは分かってるんだけど。何て言うか、気持ち的に。
でもそれは、喜ぶべきことだとも思う。彼女はこれからもあの学校に通うんだから、友達ができるのは喜んであげなくちゃ。
そう気持ちを切り替えて、
「よし、それじゃ活動再開。沙奈子はお風呂に入って。シャワーだけでもいいけど、浸かりたかったらお湯ためていいよ」
と言いながら起き上がり、僕の方は急いで帰ってきたから晩御飯も食べてないのを思い出して、沙奈子の晩御飯用に買ってあったお弁当を冷蔵庫から出して、レンジで温め始めた。
…だけど、なんかまだちょっともやもやする。ひょっとしてこれは、娘にボーイフレンドが出来た時に父親がヤキモチを焼くというあれだろうか?。
そのことに気付いた時、僕は思わず苦笑いをしてた。その顔を彼女に見られなかったのは良かったかもしれない。見られてたら、変に不安がらせたかもしれないし。
お弁当を温めている僕の後ろで、沙奈子が着ているものを脱いでいる気配がしてた。うちのお風呂はユニットバスで脱衣所がないから、服を濡らさないように気を付けて中で着替えるか、部屋で着替えるかしかないんだけど、実は沙奈子は最初から僕が見てる前でも平気で服を脱いでいた。歯医者の一件以前は僕に対して警戒感を持ってた感じはあったけど、それはたぶん、叩かれたりとか怒られたりとかしないかということを恐れていたんだと思う。一方で、男の人の前で服を脱ぐとかといったことについては何も言われてこなかったんだろう。もしくは、お風呂とかもずっと一人で入ってたから、あまり考えたことがないのかもしれない。
最初は僕の方が沙奈子に気を遣って、風呂場の中で着替えたりしてたけど、彼女自身が気にする様子もなかったから最近は面倒になって僕も部屋で服を脱いで入るようになっていた。このままじゃ良くないような気もするけど、変に意識してるみたいに思われてもどうかと思ったから、取り敢えず彼女が意識し始めるようになるまではこのままでもいいかと思ってた。一応、見ないようには気を付けてる。
沙奈子がお風呂に入ってる間に弁当を食べて、次はリュックを開けて服やタオルや体操服や水着を取り出して、洗濯機に放り込んだ。着替えとかを入れていた袋をひとまとめにして捨てて、弁当箱、水筒、歯ブラシセット、ゴーグルをキッチンに置いて、ビーチサンダル、レインポンチョ、折りたたみ傘は玄関に、洗濯バサミ、懐中電灯、酔い止めの薬の残り、結局使った形跡のない生理用品、虫よけスプレーは机の引き出しに入れ、沙奈子が拾ってきたと思われる貝殻が入ったビニール袋は机の上に置いた。
そうして空にしたリュックとナップサックを壁のフックに吊るした時、沙奈子がお風呂から出てくる気配があった。でも僕は沙奈子の方は見ず、弁当箱と水筒を洗い、それを終える頃には沙奈子も部屋着に着替えてた。兄が沙奈子と一緒に置いていったくたびれた服は、今では部屋着になってる。
入れ替わりに僕が、今度は風呂に入った。テレビを点けておいたら彼女はそれを視てて、僕の方を見るわけでもない。だから僕も部屋で服を脱いで風呂に入る。沙奈子はお湯をためてなかったからシャワーだけで済ませた。
沙奈子と並んで座って、ようやく人心地ついた。クーラーは点けているけど、沙奈子と僕の髪を乾かすためにも扇風機を使うから温度設定は28℃にしてある。そうやって二人でしばらくテレビを視た後、十時になったし髪も乾いてたからもう一緒に寝ることにした。
二人で布団を敷いて、横になる。そうしたらまた、沙奈子が僕を見てた。「こっち来る?」って聞いたら頷いたから、また一緒の布団で寝たのだった。
けれど翌朝、僕が起きて朝の用意を始めても、沙奈子は起きてこなかった。いや、布団の中で時々もそもそと動くから起きてはいるんだと思うけど、なぜか布団から出てこない。ひょっとした体調でも悪いのかと思って聞いてみた。
「どうした?。頭とか痛い?」
顔を寄せて様子を窺うと、頭を横に振る。だけどその時。何かがふわっと臭ってきた。それを嗅いだ途端、僕はハッと思った。
「もしかして、おねしょ?」
そう聞いた瞬間、沙奈子の体がビクッと反応した。そして布団に顔をうずめたまま、
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」
と何度も謝りだしたのだった。
正直言って僕も困っていた。だけどあんまりにも怯えたように謝り続ける彼女を見てたら、叱ったりとかする気にもなれなかった。
「大丈夫。怒らないから。昨日は僕が失敗したから、今日は沙奈子が失敗しただけだよ。とにかく服を脱いでシャワーを浴びておいで」
僕がそう言うと、泣き腫らした目をした沙奈子が布団から出てきた。そしてその場で着てるものを全部脱いで、風呂場に行った。
「さて、とにかく洗濯して布団は干さなきゃな」
ほんのりとおしっこの臭いが漂ってくるそれらを前に、僕は少し途方に暮れていた。




