百三十五 沙奈子編 「高揚」
木曜日。やっぱりいつも通りの朝。穏やかに一日が始まって、今日も何でもない一日として終わってくれるのを願いながら、僕は朝の用意をした。明後日は沙奈子の学校の運動会。だけど何だか天気が怪しかった。天気予報を見る限りだと今日の夜から雨になって、土曜日は曇り時々晴れってってなってた。予報通りになってくれたらいいのになって思った。
沙奈子のいってらっしゃいのキスをもらって、お返しのキスをして、仕事に向かった。普通に仕事をして、伊藤さんと山田さんとも普通に話をして、普通に仕事を終えられた。帰り道、バス停の手前にあったコンビニに寄ってみた。沙奈子に言われた方眼紙を買うためだ。でも売ってなかった。
仕方なく、バスに乗って家の方へと向かった。でもいつものバス停じゃなく、一つ手前のバス停で降りた。その近くに深夜までやってる本屋があったからだ。そこは文房具もたくさん置いていて、ここなら間違いなく方眼紙も売ってるはずだと思ったのだった。以前ここに来たのはいつだっただろう?。沙奈子がうちに来てからは来た覚えがない。半年ぶりくらいかな。
そんなことを考えながら文房具売り場を見ると、あった。さっそくそれを手に取って会計に行こうと思った時、折角だから何か沙奈子に本を買っていってあげようと思ったのだった。そうそう、沙奈子が好きで読んでたシリーズの本。図書館で借りて読み切れなかったのがあれば、買っていってあげよう。
児童文学のコーナーを覗くと、割と目立つところにそのシリーズは並べられてた。きっと人気があるんだろうなと思った。お目当てのもすぐに見付かった。ついでだからその続巻もまとめて買っていこう。そして最新刊までの三冊を手にとって、一緒に会計してもらった。
本屋を出て歩道のところまでくると、アパートの近所のコンビニの看板が見えた。バス停一つ分。歩いても5分くらいの距離だ。ゆっくり歩いて行こう。走っていこうかなとも思ったけど、やめておいた。焦って事故とか本当に勘弁だから。小さな交差点の信号も、ちゃんと守った。立ち止まってる僕の横を、自転車も歩行者も信号を無視して渡っていった。そんなことしてると、子供に『ルールを守りなさい』って言えなくなるのになって僕は思った。
結局、信号を守ってたのは僕一人だった。だけど僕はそれを恥ずかしいとは思わない。他の人が当たり前みたいに無視してるからって僕も無視していいとか思わない。沙奈子がちゃんと決められてことを守ってくれてるのに、大人の僕が決められたことを守らないなんて、そっちの方がずっと恥ずかしい気がする。
信号が変わって歩き出す。あとはもうアパートを目指すだけだ。急ぎたくなる気持ちを抑えて家に着くと、鍵を開けて「ただいま」って声を掛けた。
「おかえりなさい」
いつもと変わらないその声に、今日も無事だったなって安心して、幸せな気分になった。
「方眼紙、買ってきたよ」
僕がそう言うと、
「ほんと!?」
って、沙奈子が僕の方に駆け寄ってきた。その彼女に向かって一緒に買ってきた本も見せながら、言った。
「ほら、一緒にこの本も買ってきた。これなら期限を気にしないでゆっくり読めるだろ」
方眼紙と本を見た沙奈子はちょっと驚いたような顔をした後ですぐに嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとう、お父さん!」
そう言いながら、僕に抱きついてきた。だから僕も、そっと抱き締めた。
「僕の方こそ、ありがとう。沙奈子が頑張ってくれてるから、僕も頑張れるよ」
ちょっと寒くなってきたから、沙奈子の体が温かくてすごく気持ちよかった。そしたら彼女が両手で僕の頭をつかんで、
「ありがとうの、ちゅーっ!」
って頬にキスをしてくれた。その瞬間、びっくりしたみたいに顔を離して聞いてきた。
「お父さん、ほっぺた冷たい!。大丈夫!?」
そうか、ちょっと外を歩いてたから冷えたんだな。だけどこのくらいならまだ。
「大丈夫、ぜんぜん平気だよ。それに沙奈子が温かいからすぐに温かくなれるよ」
その通りだった。少し寒くなってきてるけどまだまだこれくらいなら問題ないし、ホントに沙奈子が温かくて気持ちいいんだ。しかも彼女が、
「じゃあ、あっためてあげる」
と言いながら自分のほっぺたを押し付けてきてくれた。ああ、本当に温かい…。そう思った瞬間、また何かが込み上げてきて、胸が詰まる気がした。どうしてこの子はこんなにいい子なんだろう…。
玄関でしばらくそうして抱き合って、ふと我に返って僕は言った。
「ありがとう沙奈子。おかげで温まったよ。じゃあ、お風呂に入るから待っててね」
僕の言葉に頷いて、彼女は方眼紙と本を持ってコタツのところに戻っていった。沙奈子も方眼紙と本を一度に見て思わずテンションが上がっちゃったんだろうなって僕は思った。いくらこの子が以前と比べて明るくなってきたからって、さすがに今みたいなことはいつもするわけじゃないからね。
お風呂から上がると、沙奈子はさっそく方眼紙に何かの形を書き込んでた。たぶん、人形の服の型紙っていうのにするんだろうとは僕にも分かった。ノートPCに、型紙のことを説明してるページが映ってたし。
だけどさっそくそれを使って服を作り始めるのかと思ったら、それを机の上に片付けて、僕が買ってきた本を読み始めたのだった。さすがに毎日やってたから、気分転換したくなったのかなと思った。その沙奈子を膝に座らせて、僕はドライヤーで髪を乾かした。久しぶりに本を読む沙奈子を膝に寛いだ。
夢中になって裁縫してる彼女を見てるのもいいけど、こうやって静かに本を読んでる彼女もやっぱりいいな。コタツの上に座った人形の莉奈と果奈も、そんな沙奈子を見守ってるみたいだった。
10時くらいになって彼女があくびをした。ちらっと時計を見て本を閉じた。その様子に僕も声を掛ける。
「そろそろ寝る?」
すると沙奈子が眠そうに頷いた。10時くらいに寝る習慣が完全に身に付いて、そのくらいの時間になると眠くなるんだろうな。実は僕もそれは同じだった。最近は沙奈子と一緒に寝るから寝不足を感じたことが殆どない。一人だった頃は何となくでネットを眺めてて気が付いたら深夜だったってこともあったのが、本当に健康的な生活パターンになったなって思う。そのおかげか、体調はすこぶるいい。今までの人生の中で一番快調かもしれない。大袈裟じゃなくそう感じる。
これもやっぱり沙奈子のおかげってことになるのかな。最初はどうなるのか不安ばっかりだったこの生活が、僕にとってこんなに幸せな気持ちになれるものだとか、本当に何が幸いするのか分からない。想像してるだけじゃ分からないものがあるんだっていうのを改めて実感させられる。
沙奈子、ありがとう。




