百二十五 沙奈子編 「人形」
今日は土曜日。しかも伊藤さんと山田さんが来るらしい日。だけど僕たちは基本的にいつもと変わらない朝を迎えてた。あれこれ考えたって仕方ない。この日常を大事にしたいんだから。
二人でトーストを食べて、掃除と洗濯とご飯を炊く用意をして、ちょっと一息ついて、午前の勉強をして、終わったころにちょうど来週分の宅配のお惣菜が届いて、午前の予定は一通り終わったのだった。でもまだ10時か。二人が来るまではまだ少しあるかな。そんな風に思ってると、僕のスマホに着信があった。
「山下さん、おはようございます。まだちょっと早かったかもしれないですけど、バス停に着きました。今から行っても大丈夫ですか?」
山田さんだった。なんだかすごく元気な感じだ。その声が沙奈子にも聞こえたらしく、
「お姉ちゃん、着いたの?」
って聞いてきた。嬉しそうな声だった。沙奈子がそんな風に喜んでるんだから、否も応もない。僕はすぐに応えてた。
「大丈夫ですよ。沙奈子も待ってます」
そう言って電話を切ったその1分後くらいに、玄関のチャイムが鳴らされた。慌てずドアスコープで二人だってことを確認してから僕は玄関の鍵を開けて、沙奈子と一緒に出迎えた。
「いらっしゃい!」
僕が言うよりも早く、沙奈子が言った。僕はそれに驚いて、一瞬、言葉が出なかった。
「あ、ああ、どうぞ」
何とかそれだけ言葉にして、二人を招き入れた。
「おじゃましまーす」
伊藤さんと山田さんがいつものように二人で声を揃えて入ってきた。沙奈子が珍しくそわそわしてる。そんな彼女の様子も気になったけど、僕はこの時、山田さんが抱えてた大きなバッグが目に付いたのだった。肩にもトートバッグを掛けてるのに、何かすごく大事そうに抱きかかえてる感じのそれは、1メートル近く有りそうなかなり細長い印象の黒っぽいバッグだった。
「あ、コタツ出したんですね。結構、朝晩は寒くなってきましたもんね」
部屋のコタツを見た伊藤さんがそう言った。「そうなんですよ」と僕が応えてる間に、沙奈子と山田さんは一緒にコタツに入ってた。その時も黒いバッグを丁寧にそっと床に置いたのが印象的だった。そんな僕の様子に気が付いたのか、伊藤さんが声を掛けてきた。
「あれ、気になりますよね。でもすぐに分かりますよ。沙奈子ちゃんのために持ってきたものですから」
え?、と思って見た伊藤さんの顔が、少し悪戯っぽく笑ってる気がした。その時、山田さんが沙奈子に向かって姿勢を改めて、ちょっと恭しい感じで話しかけた。
「今日は、沙奈子ちゃんに紹介したい子がいます」
…はい?。紹介したい子…?。僕が何のことかさっぱり分からずに呆然と見てると、山田さんは例の黒いバッグをまた丁寧に沙奈子の前に置いて、ファスナーを開け始めたのだった。
…人形…?。
そう、山田さんが黒いバッグを開けてそこからそっと出してきたのは、人形だった。しかも、かなり大きい。沙奈子の人形とは比べ物にならないくらい大きい。少なくとも50センチはある。サラッとした黒髪の、白いドレスっぽいワンピースを着た子供の人形だった。
日本人形とはかなり違う。どちらかと言えばフランス人形とか言われる洋風の人形って感じなのかな。でもその人形の顔を見て、僕はハッとなった。
沙奈子…?
沙奈子だ。この人形、沙奈子に似てる…。つやつやの黒髪を肩の辺りで切り揃えて、穏やかな表情で僕をまっすぐ見詰める時の沙奈子にすごく似てる気がした。
「この子の名前は莉奈っていいます。初めまして、沙奈子ちゃん」
山田さんはそう言いながら、人形があいさつしたみたいに沙奈子に向かって頭を下げさせていた。それを見ていた沙奈子も、目をキラキラさせながら、
「はじめまして、りなちゃん」
って挨拶を返した。その様子に呆気にとられてる僕に、伊藤さんが言った。
「あれが、絵里奈の本当の趣味です。球体関節人形っていう、3分の1くらいの大きさのリアルな着せ替え人形ですよ。ただ飾っておくだけの人形と違って関節も動くんです。絵里奈の洋裁趣味はドール趣味が高じて始まったものなんですよね」
はあ…、そうなんですか…。
説明されてもいまいち理解できてない僕の隣で、伊藤さんが急に体をくねくねさせだした。何事?、って思わず視線を向けてしまった僕の前でさらにくねくねさせながら、
「実は、私はドール趣味はなかったんですけど、兵長の球体関節人形が出るって絵里奈に言われて、夏冬のボーナスつぎ込んで迎えてしまったんですぅ~。だから今も私の部屋は兵長が待っててくれてるんですぅ~」
とか、顔を真っ赤にしながら頬を押さえて、くねくねと言うかもじもじしてた。
…ダメだ…。僕の知らない世界だ…。
完全に置いてきぼりを食らった感じで、沙奈子と山田さんの間に伊藤さんが割って入る形で人形談義を始めた三人を見詰めるしか僕にはできなかった。
でも、二人の熱い人形語りを楽しそうに見つめる沙奈子の姿は、僕にとっても気持ちを穏やかにしてくれるものだった。
そんな調子で少し疎外感も感じながらその様子を眺めてると、不意に山田さんが僕の方を見て言った。
「そろそろお昼の用意をしましょうか。キッチン借りてもいいですか?」
断れるような流れでもないし、沙奈子も立ち上がって既にやる気満々だし、僕は「どうぞ」って言うしかなかった。入れ替わる形でコタツのところに座った僕に、伊藤さんがまた話しかけてくる。
「ごめんなさい。山下さんを放っておいて。つい夢中になっちゃいました」
そう言って照れ臭そうに頭を下げる伊藤さんに、「いえいえ、大丈夫です」って僕は両手と頭を振った。僕と沙奈子の二人だけだとこんなテンションが上がる感じにならないから、たまにはこういうのもあっていいんじゃないかなとも思う。キッチンで二人並んで料理を始める沙奈子と山田さんを見ながら僕はそんなことを考えてた。その僕に、伊藤さんがさらに話し掛けてきた。
「実は地震があったから、あんまり浮かれたりってどうかと思ったんですけど、でもだからこそできる時にこうやって楽しい思い出を作っておくべきじゃないかって、昨夜、絵里奈と話し合ったんです」
それは、僕が考えてたのと同じ…。
「人生って、何があるか分からないですからね。私はそのことを、香保理に教えてもらったんだと思います」
香保理さん…。二人と親友だったっていう、リストカッターの人…。そうか、そうだよな。また次の機会に会えるはずだった人が突然いなくなるっていうのを、二人は経験してるんだ。だからできることは積極的にやろうとしてるんだって僕も感じた。たぶん、沙奈子もそれを望んでる。
僕との穏やかで何もない毎日も大切かも知れないけど、沙奈子が望むなら、こういう賑やかな一日っていうのもきっと大切なんだろうなと、僕は感じていたのだった。




