百二十三 沙奈子編 「淡々」
「地震、怖かった?」
帰り道、手をつなぎながら歩く沙奈子に僕はそう聞いてみた。すると彼女はちょっと首をかしげて言った。
「あんまり分からなかった。ゆれたのかなって思った」
この子がそう言うってことは、学校はほとんど揺れなかったってことなのかな。確かにあの学校は耐震補強が済んでるっていう話だったから、そのおかげかもしれない。それに安心しつつ、僕は大きな被害が出てなければいいけどって頭の片隅で思ってた。
もしかしたらもっと大きな地震があったかも知れないということを改めて考えて、沙奈子に聞いた。
「もし、大きな地震があったらどうするんだったっけ?」
その僕の問い掛けに、彼女は少し考えた後で、
「机とかの下にかくれて、ゆれるのが止まったら安全なところに逃げる」
って答えてくれた。僕の言ったことをちゃんと覚えててくれたのが嬉しかった。だからもう少し突っ込んで聞いてみた。
「じゃあ、その時は僕のことはどうするんだっけ?」
その問いにも、僕を見て答えてくれる。
「さがしに行かない。お父さんが私のことをさがしに来るまで危なくないところで待ってる」
「そう、その通り」って僕は言ったけど、沙奈子はちょっと悲しそうな顔をしてた。「どうしたの?」って聞いたら、縋り付くような目で彼女は言った。
「お父さんとはなれるの、やだ…。一人はもういや…」
そう言われて、僕は胸が詰まるのを感じた。沙奈子の手を握る僕の手に、少し力が入った。
「大丈夫。いつもおうちで僕が仕事から帰って来るのを待ってるのと同じだよ。僕は必ず沙奈子を迎えに行く。必ずね」
彼女の目を見て、静かに、でもはっきりと言った。すると、少し安心したみたいに沙奈子の表情が柔らかくなった。
「そっか、そうだよね。いつもみたいに待ってたらいいんだね」
彼女の中で何かが納得いったみたいだった。いつもの穏やかな表情に戻ってた。それを見た僕も、何だかホッとした気分だった。
「そうだよ。だから待っててね」
そう言った僕を見て、沙奈子が微笑んでくれてた。
そんな調子で家に帰って、まずテレビを点けてみた。当然、どのチャンネルも地震の特別番組になってた。ただ、思ったほどは被害の情報が入ってこない気がした。それが、情報が混乱してるせいなのか、それとも本当にすごい被害が出てるってわけじゃないのかは僕には分からなかったけれど。
沙奈子がランドセルから宿題を出してやり始めたから、僕はテレビを消した。代わりにノートPCの方を立ち上げて、最新の情報だけ見られるようにした。
「寒かったらコタツ点けていいよ」
と僕が言ったら、「うん」って頷いてくれた。でも点けようとしなかったから、まだ大丈夫なのかなって思った。確かに、沙奈子を膝に一緒に座椅子に座ってると温かくて、コタツは必要なかった。
何だかいつもとはちょっと違う感じで、ぼんやりする。でも僕たちがこんな風にぼんやりしてられる時に、地震で大変な人もいるんだと思うと、少し胸が苦しくなった。だからって何ができるわけでもないのも事実だった。ただ、被災者支援の寄付はしようかなって素直に思えた。今まではそんなこと、考えたこともなかったのに。
ううん、むしろ、そういうのを偽善っぽいってバカにしてたくらいだったと思う。それが、自分がこうやって守りたい人が出来ると、同じように誰かを守りたいって思ってる人がいて、なのに守ってあげられなかったりしたらすごく辛いだろうなっていうのは想像できるようになってしまった。そう考えると、自分にできる程度のことくらいはしたいって素直に思えた。
以前の僕は、そういう気持ちさえ意図的に無視してたんだと思う。何もできない自分を思い知らされるのが嫌で、見て見ぬふりをしてきたんだなと思う。けれど今は、できないことはできないと認めつつ、自分にできることならしてもいいんじゃないかって思えるんだ。
僕はヒーローにはなれない。沙奈子と自分の生活を守るだけで精一杯のちっぽけな人間だ。だけどこの世にいるほとんどの人は、そういうちっぽけな存在なんじゃないかな。実はそういうちっぽけな人っていうのが一番の多数なんじゃないかな。そう思えば、ちっぽけなことは決して悪いことじゃない気もする。そういう存在がこの世界を作ってるんだって分かる気がする。
弱っちくて頼りない存在だけど、それ自体が悪いことなんじゃない。自分が弱っちい人間だってことを認めたくなくて目を背けるのがズルいんじゃないかな。そんなことを思ってしまった。
僕がそんなとりとめのない思考を巡らせていると、しばらくして宿題を終わらせた沙奈子が言ってきた。
「裁縫セット、使っていい?」
もちろん、ダメだっていう理由もないから「いいよ」って応えた。そしたらすぐに裁縫セットを出してきて、ボタン付けを始めた。何だかもう、僕より沙奈子の方が『仕事してる人』って感じに見えてくる気がする。すごい集中力だし。
今日の地震のことは、こういう日常だっていつ突然壊れるかも知れないっていうのを思い知らせてきたって気がする。僕たちが住んでる辺りがこの程度で済んだのは、本当にたまたまなんだって思った。だから余計に、こういう何でもない日常を送れる時に送らせてあげたい。いつ、何があるか分からないからこそね。
事故とかは自分が気を付けてたらある程度は防げるとしても、地震とかの天災はそれこそどうしようもないし。だから沙奈子には、もしもの時は生き延びることを考えてほしいと思った。お互い生きていれば、無事なら、必ずまた会える。1日とか2日かかっても、必ずだ。
そんな感じであれこれ考えてる間に、外が暗くなってきたのを感じた。もう夕方か。長く伸ばした紐をつかんで照明を付けると、パッと部屋が明るくなる。沙奈子はもう一時間以上、ボタン付けに夢中だ。よくこれだけ黙々と同じ作業を続けられるなと改めて思ってしまった。なんだかもう、洋裁の職人になるしかないんじゃないかって気さえする。
でもそれは、この日常を積み重ねた先の話なんだよな。何年でも何年でもこの淡々とした日常が積み重なった先に、その延長線上にあるんだと思う。ドラマチックな展開なんてもう要らない。僕たちはただ、こうやってささやかな日常を続けていければそれでいいんだ。地位とか名声とかお金とか、そんなものは欲しい人が勝手に求めていればいい。僕たちにはそんな生き方はできない。ひっそりと生きて、いつかひっそりと静かに人生を終わらせられればそれでいいんだ。
ただその時に、もしかしたら誰かが傍についててくれて見守ってくれたら、それ以上は何も求めない。
いや、それも贅沢かな。自分がこの日常を大切にして、それを守り切ったっていう実感があれば、それで十分っていう気もする。沙奈子のが大きくなってちいさな幸せを自分の力で掴んで自分でその幸せを守っていけるのを見届けられれば、僕の人生には意味があったと思える気がしていたのだった。




