百十六 沙奈子編 「気持」
月曜の朝。いつものように沙奈子と一緒に用意をしながら、僕は昨日のことを思い返していた。何だか夢を見てたかのような気分だった。沙奈子とあの二人との関係がこんなことになるなんて、むしろ夢にも思わなかった。
それでふと思い出してしまった。伊藤さんと山田さんと初めて会ったころには二人に対してすごく失礼な態度を取ってしまってたなって。とは言え、もしかするとそれは彼女たちも同じなのかもしれない。伊藤さんが言ってたみたいに本当に軽い気持ちで僕に声を掛けてたのだとしたら、僕の方もそれを感じ取ってても変じゃないのか。よくあの時点でお互いに「もういいや」ってならなかったな。
いや、僕の方は嫌われようとしてたと思う。それを二人が我慢してくれたことで乗り越えられたんだ。じゃあやっぱり僕の方が迷惑をかけてたってことになるのかもしれないなあ。それがすごく申し訳なかった。あんなプレゼントだけじゃお礼としては足りない気もする。
沙奈子の『いってらっしゃい』のキスをもらってお返しのキスをして、彼女に見送られながら家を出た。会社に着くと、英田さんがすでに出社してた。相変わらず憔悴した感じだった。当然か。僕だってもし沙奈子を亡くしたりしたら一週間とか二週間とかで平気な顔が出来るようになる気がしない。だけどそれは英田さん自身の問題だから、僕にできることはただ無闇にそこに触れないようにするだけだと思った。
仕事に集中し、確実にこなしていく。そう、できることをするだけだ。自分の無力さを嘆いても人はスーパーヒーローになれるわけじゃない。そんな空想に逃げ込むのは、僕は嫌だ。もちろんそれは、アニメにハマった伊藤さんを否定するために言ってるのとは違う。心の支えになるものはきっと必要なんだというのは僕にも分かる。それに伊藤さんはアニメに逃げ込んでるわけでもないと僕は感じた。ちゃんと、亡くなったことを心から悲しいと思える友達がいて、アニメのキャラクターに似てるからっていう理由であっても生身の僕に声を掛けてくるくらい、現実の中に生きてるんだって気がする。
だから僕も伊藤さんや山田さんに負けないように、恥じないように、頑張っていきたいと素直に思えた。
そうやって午前の仕事を終えた昼休み、やっぱり伊藤さんと山田さんと一緒に昼食をとる。僕と違って英田さんと直接顔を合わすわけじゃないし、何より沙奈子とのことがあったからか、二人はすごく上機嫌だった。僕もそれが嬉しかった。
「でも~、山下さんのことを兵長に似てるってオタク友達に言ったらみんなからフルボッコにされたんですよ~。『どこが!?』って~。海の時の写メ見せたらそれこそ袋叩きで~」
アニメ趣味がバレてしまったことで開き直ったらしい伊藤さんが熱く語る。僕がアニメのキャラクターに似てるって同じアニメ好きの友達に言ったら全否定されたっていう意味なのは、僕にも分かった。だけどそれは、むしろ友達の方の気持ちが分かる気がする。僕自身、いまだにどこが似てるのか納得できてないし。だいたい、生身の僕とアニメのキャラクターが似てるかどうかっていうのはそれはその人の主観が大きく影響すると思う。いくら伊藤さんが似てるって感じても、他の人が同じように感じるとは限らない。どっちが正しいとか間違ってるとかじゃなくて、それはそういうものなんだろう。
その一方で、
「ひどいと思いません!?」
と同意を求めてくる伊藤さんに対しては、
「そ、そうかも知れないね…」
と応えた。僕としては顔も知らないそのアニメ好きの友達じゃなくて伊藤さんの味方になるべき立場だと感じたし、伊藤さんが似てると感じてるならそれを尊重したいと思ったし。それに山田さんが、
「ちょっと玲那、そんなこと言われても山下さんが困るでしょ」
ってフォローもしてくれたし。
改めて伊藤さんと山田さんを見ると、二人ともそれぞれにいろんなものを抱えてるんだなって感じた。伊藤さんは男性不信からアニメキャラにハマったり、山田さんは中学の時からの友達を亡くしたことで今でも人目もはばからず泣いてしまったり。こう言うと伊藤さんの方が何だか軽そうだけど、たぶん、まだ話してくれてない事情がありそうだとも、特に根拠はないけど感じずにはいられなかった。
そんな二人が、僕と一緒に沙奈子を支えてくれるって言ってくれてる。それはきっと、二人にとってもそうする必要があるからなんだって思える。それが自分の傷を癒すとか、辛い過去を和らげるためだとかいう理由だって構わない。僕だって結局は僕自身の為に沙奈子を守りたいと思ってるんだから。無償の愛なんて僕には信じられなくても、だからこそ逆にそこにはっきりとした理由がある欲求としての『守りたい』っていう気持ちなら、それは信じるに値する気がする。
二人の話を聞きながら僕がそんなことを考えてると、
「今度の土曜日、お邪魔してもいいですか?」
って言われた。まあ特に断らないといけない理由もなかったし沙奈子も喜ぶと思ったから「いいよ」って答えておいた。ただし、
「沙奈子は午前と午後に一時間ずつ勉強するから、それは承知しててもらわないといけないけどね」
と釘を刺しておいた。昨日、帰ってきてから自分から勉強するくらいに沙奈子自身も守りたいと思ってるらしい生活パターンは尊重してもらわないといけないからね。すると二人も頷いてくれた。
「もちろん分かってます。私たちもお手伝いできることあったらお手伝いします」
伊藤さんがそう言うと山田さんも、
「二人の邪魔はしませんよ」
なんてウインクしながら応えてくれた。何かそれ、微妙にニュアンスが違わなくないかなと思ったけど、まあいいか。
そんな昼休みを終えて午後からも仕事に集中する。目の前にあることも片付けられないで沙奈子を守れるわけがないって自分に言い聞かせて。そのおかげか、また残業はそんなにしなくて済みそうだった。それでも敢えて慌てないように、夕食は社員食堂で食べてから仕事を終わらせた。
7時過ぎには残業が終えられて、僕は会社を後にした。ゆっくり、確実に、危険がないように落ち着いて家に帰る。沙奈子のところに無事に帰らなきゃいけないから。
「ただいま」ってドアを開けたら、いつものように「おかえりなさい」って応えてくれた。僕の方を振り向いた沙奈子の手には、また新しい人形の服らしいものがあった。だから僕は言った。
「昨日、スーパーに買い物に行けなかったから今から行ってくるけど、沙奈子はどうする?。お留守番しておく?」
そう、昨日、結局スーパーに買い物に行くのを忘れてたから、まだ8時になったばかりだしせっかくだから買い物に行っておこうと思ったんだ。すると沙奈子は当たり前みたいに頷いて「行く」って言ってくれたのだった。




