百八 沙奈子編 「玉子」
伊藤さんや山田さんと今後どう距離感を保つかっていう点である種の結論を得た僕は、なんだかすごく晴れ晴れとした気持ちになってた。以前も他人に嫌われたっていいやみたいに思ってたけど、今はそれとはちょっと違う意味で他人に嫌われたって評価されなくたって平気だっていう気がする。
だって、もう4人も僕のことを認めてくれる人がいるんだもんな。たった4人でも、その4人が大事なんだって思った。もちろんその筆頭は、断トツで沙奈子だけどさ。あとは山仁さんと、伊藤さんと山田さん。なんだか、それ以上のものを求めたらむしろ罰が当たりそうってさえ思う。
土曜日の朝。普段と変わらない朝なのに、いつも以上に爽やかな気分だった。よし、今日も無事に一日を乗り切るぞって自然に思えた。
沙奈子と二人で朝食を済まして、歯磨きをして、着替えて、掃除と洗濯とご飯を炊く用意をして、それから勉強をした。いつも通りの滑り出しだ。そしてそれが楽しい。朝の勉強は、いよいよ3年生の漢字に突入した。すごく順調だって感じた。
勉強が終わって二人で寛ぐ。今日のお昼は、沙奈子に玉子焼きに挑戦してもらおうかな。せっかく玉子焼き用のフライパンも買ったんだし。
だけどお昼まではまだ結構時間もあったし、「裁縫セット使っていい?」って聞かれてもちろん「いいよ」って答えた。もう手慣れた感じで。でも見ると僕のTシャツだった布はあちこち切り抜かれ、もうすっかり元が何だったのかもよく分からなくなってた。そこからさらに切り抜いて沙奈子が準備をする。
さすがに僕も何度も見てるから、また同じワンピースを作るつもりなんだって分かった。練習のためなんだろうけど、何度でも同じことを繰り返せるっていうのもすごいと思った。僕ならすぐに飽きそうだ。仕事なら仕方ないと思ってやれても、誰に命令されたわけじゃないことだもんな。
あと、接着剤を使うのよりこっちの方がいいんだなっていうのもすごく分かったって感じだった。イメージ的には接着剤を使う方が簡単そうに思うんだけどなあ。手についたりするのが嫌なのかな。っていう以上に、当たり前みたいに針と糸で縫っていく。沙奈子にとってはこっちの方が簡単だっていう感じなんだろうか。
すると昼食の用意を始めようと思う時間までにまた一着作り上げてしまった。使ったTシャツの模様が違うからそれまでのとはまた印象が少し違う。沙奈子の人形は、もうすでに彼女自身と変わらないくらいに服持ちになってしまった。
さすがにもっと複雑な服になるとこんなに簡単には作れないと思うけど、それでもきっと沙奈子なら作ってしまうだろうと思えた。
でもとりあえず今は、昼食の用意を始めないとね。裁縫セットを片付けてもらって、彼女に言った。
「今日は、玉子焼きを作ってみようか」
その僕の言葉に、沙奈子も嬉しそうに「分かった」って頷いてくれた。ようし、じゃあ、さっそく始めよう。
味噌汁用のお椀に卵を二つ割って入れて、そこに粉末のダシの素を少し入れた。だから正確には、玉子焼きって言うよりダシ巻きってやつかな。それを良くかき混ぜてもらって、その間に玉子焼き用のフライパンを温める。フッ素加工のだから油は要らないらしいし、温まったかなって辺りで溶いた卵を半分ほど流し込んでもらった。
弱火で様子を見る。少し固まりかけてきたところで、
「箸で卵を奥の方に寄せてみて」
って沙奈子にお願いした。すると沙奈子が困った感じで僕を見た。
「え、でも…」
と声に出す彼女に言った。
「今は形は崩れてもいいよ。残りの半分を流し込む場所を作りたいだけだから」
そう言いながら、僕は箸で少し固まり始めた卵を奥に寄せた。そして空いたスペースに残った卵を流し込む。これは、僕が昔からやってるダシ巻きの作り方だった。何となくのイメージでそうしてきただけの自己流だ。そうやって、後から入れた方の卵が少し固まってきた頃には寄せた方は結構しっかり固まってきてるから、それを箸で少しずつ転がすように手前に寄せた。
完全に固まる前にそうしたら中が半熟のトロトロのダシ巻きになるんだ。僕は何となくこの方が好きかなってことで自分で作る時はそうしてた。ただ、卵があまり半熟過ぎると沙奈子みたいに小さい子にはちょっと心配だから、ちゃんと固まるまで時間をかけてみた。
「よし、こんなものかな」
と言って、皿の上に置くと、まあまあ綺麗にできたと思った。それを見た沙奈子が言った。
「玉子焼きだ!」
興奮気味のその声に、僕もなんだか嬉しくなった。
「じゃあもう一個、作ってみようか。今度は沙奈子にやってもらおうかな」
という僕の言葉に彼女も嬉しそうに頷いた。同じように卵を二個、お椀に割り入れて、そこに粉末のダシの素を少し入れて溶いた。ここまでは沙奈子もかなり慣れたものだった。またフライパンを温めておいて、そこに半分、流し込んでもらう。そして少し固まり始めたら沙奈子に奥に寄せてもらった。さすがにちょっと上手くいかなかったけど、「大丈夫」って声を掛けてやってもらった。
空いたところに残りの卵を流し込んで、二人で様子を見る。固まり始めたところで、先に寄せた方を転がすように手前に寄せてもらった。でもさすがに初めてだったから少し形が崩れてしまった。「あ…」って声を上げた沙奈子に、
「うん、いいよいいよ、初めてだから仕方ない。気にしないでいこう」
そう声を掛けながら、ゆっくり丸めてもらった。少し形が崩れたところもその上に卵の層が重なったことで見えなくなった。それをお皿に置くと、
「おお~」
って二人で声が漏れた。うん、上出来上出来。お店とかで出てくるものに比べたらちょっと形がいびつでも、初めてにしては綺麗にできたと思うよ。ダシ巻き一つにプチトマトと煮干しっていう質素なメニューでも、もともと食の細い僕たちにとっては十分だった。足りない分はご飯で補えばいいし。
「おいしい」
自分で作ったダシ巻きを食べて、沙奈子は嬉しそうに言った。僕も自分のを食べてみたら、うん、いつもの自分で作ってるやつだと思った。他の人が食べて美味しいと思ってくれるかどうかは分からないけど、不味いとは思わなかった。今日のも大成功と言っていいんじゃないかな。
いずれ彼女が自分で作り方を調べたりしたら僕の作り方は変だったってことになるとしても、これも思い出ってことでいいかもしれないと言い訳しつつ、楽しい昼食になったから良かったと思った。
二人で一緒に後片付けをしつつ、これから食後の一休みをして午後の勉強をして、それから図書館とスーパーに行くといういつもの段取りを思い浮かべた。それで何気なく締め切ったカーテン越しに外の様子をうかがうと、また雨が降り出してるのに気付いてしまった。
「雨だね」
と僕が言うと、沙奈子は、
「またあの雨の時の靴はいていい?」
って聞いてきた。いつも買い物に出かけるから、彼女も今日も行くって分かってるんだな。しかもあの靴も結構気に入ってくれてるんだと思って、僕は嬉しくなったのだった。




