百二 沙奈子編 「萌芽」
典型的な<ヒヤリハット>ってやつだよな。今回のは。工場の方では散々言われてることでも、僕たち設計の方はあまり実感がなかった。だけど普段の日常の生活の中でも当てはまるんだっていうのを思い知らされた気がした。今回のことを教訓にしなきゃ、僕は沙奈子を悲しませることになる。それだけはやっぱり嫌だ。
今頃になって心臓がバクバク言ってる。それもそうだけど、あの時に沙奈子の顔が頭に浮かんだのが、なんだか嬉しい気がした。ああいう時でも僕はちゃんと沙奈子のことを気にしてるんだっていうのが確認できたって言うか。でも、それは僕が無事でないと意味がないよな。ほんと、事故とかの場合は他人は信用できないっていうのを徹底しなきゃダメだな。自動車がこっちに気付いてるはずだ、しっかり安全確認してくれてるはずだなんてのは信じちゃいけないって改めて思い知った。
沙奈子にも言っておかなきゃ。いくらこっちが青信号でも、他の人がちゃんとそれに気付いてるとは限らないってこともね。信号無視の自動車が突っ込んでくる事故っていうのもあるんだから。
せっかく無事だったんだから、今回の経験を活かさなきゃ。つくづくそう思う。
その後は落ち着いて行動して、バスを一本乗り過ごしてしまっても気にしないようにして、ゆっくり確実に安全に家に帰ることを心掛けた。そして玄関を開けて「ただいま」って言ったら、「おかえりなさい」って沙奈子の声が返ってきた。良かった。僕は無事に彼女のところに帰ってこれたんだってことを、やっと実感できたのだった。
「沙奈子、これ、布用の接着剤。僕がいない時でも、これでなら服を作っててもいいよ」
そう言いながら接着剤を手渡すと、彼女は興味深そうにそれを眺めた。僕は以前、沙奈子の服をクローゼットに仕舞うために僕の服を整理した時にもしかしたら使うかもって残しておいたのに結局それから一度も使ってないTシャツを出してきて、
「とりあえず布はこれを使ってくれたらいいよ」
って言いながら、机の上のハサミを手に取って一気に縫い目を切り開いた。こうした方が、沙奈子にとっても使いやすいと思った。彼女の性格からすると、服のままだと遠慮してしまうかもしれないと思ったし。それに何より、まだ使えるかもって思ってしまう僕自身の諦めもつく。
僕の突然の行動に驚いた感じだった彼女も、ただの布になってしまった僕のTシャツだったものを受け取って少し嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
そう言ってくれる沙奈子に頷きながら、僕は風呂に入る用意をした。風呂に入りながらでも、横断歩道でのことを思い出して背筋が寒くなる。あとほんのちょとズレてるだけで僕は今ここにいなかったかもしれないと思うと、体まで震えてきた。たとえ死ななかったとしても、意識を失って病院とかに運ばれたら、沙奈子は一人この部屋で、いつ帰って来るかも分からない僕を待つことになったかも知れないんだ。
ダメだ。それはダメだ。あっちゃいけないことだ。今回そうならなかったのは本当に幸運だった。だけどそれはあくまでたまたまだ。次も同じように無事でいられるとは限らない。だからこういうヒヤリが無いように気を付けなきゃいけないんだ。僕は元々、決して運がいい方じゃないんだから。きっと次はない。今回ので使い果たした。そう思っておかなきゃいけない気がする。本当に気を付けなきゃいけないよ。マジで。
風呂から出ると、また沙奈子がおつかれさまのキスをしてくれた。僕もお返しのキスをする。そこでやっと落ち着けた気がした。さらに安心したくて、彼女を膝に寛ぐ。
沙奈子の髪の匂い、息づかい、体温、重みを感じ取る。は~、ほんと生き返る。二度とあんなのは御免だ。
何とか日常に戻った感じで改めて彼女が何をしてるのかなと見ると、テーブルの上に見覚えのある小さな布切れが置いてあるのが分かった。僕のTシャツだ。沙奈子が僕のTシャツをさっそく切って使ってるんだって分かった。しかも開かれたノートPCには、布用接着剤を使って簡単に人形の服を作るっていう動画のページが表示されていた。
「さっそく人形の服を作ってるの?」
僕が聞くと、彼女は「うん」と大きく頷いた。動画を見ながらその通りに布に接着剤を縫っていく。動画ではレース風のパーツも着けたりしてるけど今はまだそういうのが無いから、沙奈子が作ってるのは飾りのないシンプルな服になりそうだった。それがみるみる形になっていく。接着剤が固まるまで洗濯ばさみとかクリップで止めておく必要があるから家にあるものを出して彼女に渡した。
そうして大まかな形は出来上がった。背中開きの袖のないワンピースみたいだった。ただ、接着剤が乾くまではそれ以上触れないしもちろん人形にも着せられなかった。それを見てた沙奈子が僕に言った。
「裁縫セット、使っていい?」
時間を見ればまだ九時前だった。今からだとどれくらいできるかは分からないけど、やってみたいんだったら挑戦してみるのも悪くないのかもしれない。そう思って僕は答えた。
「いいよ」
するとすぐに彼女は裁縫セットを出してきて、また僕のTシャツだった布を小さく切って部品を作った。そうかと思うと今度は針と糸を使って簡単な人形の服を作る動画を表示させてた。なんかもう手慣れた感じだった。僕がいない間にいろいろ視てたんだなって思った。針に糸を通すのも当たり前みたいにすぐに出来た。もう、呆気にとられるしかなかった。
動画の通りに針と糸を使って縫っていく。使い古しのハンカチで練習してた時より明らかに早い。それどころか接着剤を使ってたさっきのと比べても、どうしても手に接着剤がついてしまっていちいちそれを拭いてた時よりスムーズな気がする。これはひょっとしてひょっとするのか。
ただ、肩紐の部分のパーツは小さくてさすがにやりにくそうだった。だけどそれでも何とか服本体に縫い付けて、一時間とかからずにさっきの接着剤で作ったのと同じようなワンピースが出来上がってしまった。ただ、背中で閉じるための面ファスナーが無かったから、そこまではできなかった。それでも沙奈子はそのワンピースをさっそく人形に着せた。背中は仕方なくセロテープで止めた。だけど、正面から見ると、
「すごい、ちゃんと服になってるね」
僕は思わず声を漏らしてた。そう、正面から見たらちゃんと人形のワンピースになってた。確かに売られてるものに比べれば縫い目もきれいじゃないし形も少し崩れてるかも知れない、だけどこれを小4の女の子が一時間ほどで作ったんだって思ったら、十分に驚きなんじゃないかな。
沙奈子の顔がすごく自慢げに見えた。ああでも、これで来年の夏休みの工作は決まったかな。人形の服をいくつか作ってきれいに飾ったら、かなり格好いいんじゃないかって気がする。
僕は何だか、彼女の才能が芽生えた瞬間を見るような気分になってたのだった。




